神戸市私立幼稚園連盟「ようちえん」 1989.5.15 第185号所収
神戸教会いずみ幼稚園 岩井健作(55歳)
五月。入園した子供たちの歌声も、よどみなく明るい。
「センセイトー、オトモダチ、
センセイトー、オトモダチ、
……ニラメッコシヨウ、
メッ!メッ!メッー」
季節を目の表情で現すならば五月の目は、にらめっこの目ではないか。向かい合った目。二人だけの目。輝いた目。表情のある目。演技のある目。友だち同志の目。
それは「二人称の目」だ。哲学者マルチン・ブーバーの言う『我と汝』の目だ。
「一人称の目」ももちろん大切だ。独りの目、内省の目。心の目。沈黙の目。考える目。それは十一月にでもゆずろう。
「三人称の目」。それは観察の目、冷静な目、広いめ、遠くからの目、客観的な目、全体への目。責任の目。それも四月にでもゆずろう。
だが、「二人称」あっての「一人称」と「三人称」ではないか。言いかえれば「愛」があっての人生だし、子育てなのだ。
昔、僕らの子供の頃、太平洋戦争下、五月は男の子の月だなどと教えられたことを思い出す。男の子は兵隊になれるので喜ばれた。
五月をそんな月にしてはならない。五月は「こども」の月だ。男の子と女の子が、目を輝かして向かいあったり、手を取り合って遊び込む月だ。
向かい合う目、といえば『100万回生きたねこ』(佐野洋子作・絵 講談社)の主人公のねこを思い出す。鋭く強い目で、独りで百万回も生きた。だが、伴侶となった白いねこに出会ってからは、やさしくのどをならし、死別に至るまで「二人称の目」をもった。五月の目はやさしくもある。
子供の自立と親の責任(1997 いずみ幼稚園)