いつくしみの目(1989 神戸教会・石井幼稚園)

「石井幼稚園・石井伝道所だより 第39号」1989年6月号 所収

(神戸教会牧師・石井幼稚園代表役員
健作さん55歳)

イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた。 (マルコ 10:21 口語訳)


 ぼくの好きな絵本の一つに、佐野洋子さん作・絵の『100万回生きたねこ』(講談社 1977)というお話があります。


 うちの幼稚園の文庫にも2冊入っていますから、子供たちも好きなのでしょう。

「あるとき、ねこは王さまのねこでした。……」で始まって、船乗り、サーカス、泥棒、おばあさん、小さな女の子、そして誰のねこでもない立派な野良猫として100万回も生きては死に、また生き続けます。

 鋭い目をした猫は、お嫁さんになりたくて近寄ってくる雌猫たちに「オレは100万回も死んだんだぜ」と誇らしげに語ります。

 でも、そんな言葉には見向きもしない美しい白い猫がいます。

 彼の自慢には「そう」と言ったきりでした。

 やがて猫は「100万回も……」と言いかけて、「そばにいてもいいかい」と尋ね、よき伴侶となります。

 子猫も生まれて、それぞれ自立し、おばあさんになった猫と死別した時、猫は初めて100万回も泣き、やがて静かに動かなくなった。

「ねこはもう、決して生きかえりませんでした。」……おしまい……というお話です。

 結婚カウンセリングで、若い二人に読んで聞かせることもあります。

 100万回も強く生きる猫の目は、鋭く、そして冷静で、いわば「一人称」と「三人称」の目を持っています。

「一人称の目」は、独りで生き抜く目、あるいはそれ故の内省の目、沈黙の目です。

「三人称の目」は、状況を客観的に捉える目、観察の目、広い目、全体への目です。

 でも、それだけで100万回も生きて死んでも、それはそれだけのことです。

 猫は、白い猫に出会い、「二人称の目」、つまり向かい合う目、二人だけの眼差し、喜びや涙の表情のある眼差しを持つことができました。

「二人称の目」は、また慈しみのある愛の眼差しでもあります。

 私たちが「二人称の目」をもって生きることを許されているのは、人間であることの生きる喜び、そして死別を超えて、愛が永遠であることを許されているからです。

 もし「神」がいますならば、神は私たちの「二人称の目」の生活経験を通して語り給うのではないでしょうか。

 昔、イエスを通してそんな経験をした人たちの証言としての「聖書」の言葉には、そのことを秘めた響きがあります。


五月の目(1989 「ようちえん」)

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