「かにむかし」のお話から(1989 保育)

「母のひかり」(キリスト教保育連盟)1989年6月号 所収

(神戸教会牧師・いずみ幼稚園園長12年目、健作さん55歳)

「かにむかし」というお話があります。

 むかしむかし、かにが柿のたねを拾うて、うちの庭の隅にまいておいてから、水をかけたり、肥やしをやったりして、一生懸命に育てます。はようはようと追い立てられて、大きくなった柿の木は

「はよう、みを、ならかせ、かきの木。ならかさんと、はさみで、ぶったぎるぞ」

 と言われて、あわてて実をつけます。熟れた柿の実を取ろうとして、柿の木に這い上っていっちゃ、落ちているかにを見て、山から一匹のさるがひょいひょいと駆け下りてきて、「おらが、もいでやろうか」と言うたが早いが、駆け上って柿の実を食べ始めます。そうして怒るかにに、青柿を投げつけ、かにを殺してしまいました。でも、小がにがたくさん生まれて、くりとはちと、牛のふんとはぜ棒と臼とが力を出し合って、さるを退治すると言うお話です(『かにむかし』文・木下順二、絵・清水崑、岩波書店 1976)。

 これは語り伝えられた昔の人の心を届けてくれるお話であると同時に、今の私たちの心を透かして見せてくれたり、温めてくれたり、なかなか含蓄のあるお話です。園でも子どもたちが何回も何回も

「よんでー、よんで!よ・ん・でー!」

 とせがむお話の一つです。

 このお話の中には、私たち、親や教師の日頃のあり方を、反省させられるような場面があります。例えば「はよう、はよう」を連発して、柿の成長を追い上げるかにの、待った無しの性急さ。成長というものには、それぞれ、他と比べることのできない固有な過程があるのに。お母さま方、「早く、早く」と焦る、時と心のご経験がありませんか。

 現実の人間社会には、どんなに気を使っても、いじめが存在していたり、また実直なかにが、要領のよいさるにやられてしまう悲哀というものがあります。つらいことです。昔の人たちの悲しい気持ちがお話の底から伝わってきます。でも、その「悲しみ」を素通りしてしまわないで、悲しみをそっと包む心もそこから伝わってきます。

 聖書でも「悲しんでいる人たちは、さいわいである(救いがある)、彼らは慰められるであろう」(マタイ 5:4)といって、人の世の悲しみを負った方、イエスさまの言葉を伝えています。

 この本を子どもたちと読んでいくと、子どもたちは、子がにたちが石垣の間でじっと成長し続けて「がしゃがしゃ、がしゃがしゃ」とさるのばんばへ、さるを懲らしめに出かけるところが大好きで、目を輝かして聴き入ります。

 読む方も一段と力の入るところです。親がにの死と子がにの自立と成長。人間にとっては「死と生」が一つの事柄であるといった、よほどの人生経験を経ねば分からぬことや、親子という世代を含めて、長い目で事柄を見ていくことなども教えられます。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ 12:24)。ふと聖書の言葉が心をよぎります。

 はぜ棒や牛のふんのくだりで子どもたちはニヤニヤします。一見目立たないものの蠢きや役割が子どもの心のどこかをくすぐるのでしょうか。

 それにしても、目先のことには賢い日本人総体が、さるのようにアジアの人たちを傷つけていながら、それにさえ気づかないとしたら、怖いことだなとも思いました。アジアの子どもたちは、そうは読まないでしょう。子どもは神さまの心に近いのですから。

「神の国はこの(幼な子の)ような者の国である」(マルコ 10:14)。

 清水崑さんのさるの絵はなかなか愛嬌があります。さるだって、神さまに愛されているのですからね。

「かにむかし」のお話から(1983 石井幼稚園)