「母のひかり」(キリスト教保育連盟)
1989年7月号 所収
(神戸教会牧師・いずみ幼稚園園長12年目
健作さん55歳)
”愛のうちにいる者は、神におり”(ヨハネ第一 4:16)
ぼくの好きな絵本の一つに、『100万回生きたねこ』(佐野洋子作・絵、講談社 1977)があります。
うちの幼稚園でもかなり読み込まれて古びています。子どもたちも好きなのでしょう。
「あるとき、ねこは王さまのねこでした。……」
と書き始められているねこは、船のり、サーカス、どろぼう、おばあさん、小さな女の子、そして誰のねこでもない立派な野良ねことして、100万回も、生きては死に、また生き続けるのです。
鋭い目をした強いねこです。
ナルシストを思わせるように、自分が好きなねこです。
およめさんになりたくて寄ってくるねこたちに「おれは100万回も、死んだんだぜ」と誇らしげに語ります。
でも、そんな言葉には見向きもしない、美しい白いねこがいます。
彼の自慢にも「そう」と言ったきりでした。
ねこは、腹を立てました。
次の日も、次の日も、ねこは白いねこのところへ行きました。
サーカスの宙返りもしてみせました。
でも、やがて「おれは、100万回も……」と言いかけて「そばにいてもいいかい」と尋ね、やがて伴侶になるのです。
子ねこも生まれて、それぞれ立派な野良ねこになって家を出て、やがて白いねこは、おばあさんになりました。
やがて死別します。
ねこは、初めて夜から朝、朝から夜へと100万回も泣きました。
やがて、ねこは静かに動かなくなり、
「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした」
とお話もおしまいになります。
時々、結婚カウンセリングなどで、若い二人に読んで聞かせることもします。
それは、決して、男の子が「100万回も……」と突っ張っているからというわけでありません。
男というものは、多かれ少なかれ、そんなところを持っていて、100万回くらい死なないと直らないことも事実です。
そんな突っ張りも包んでいく、存在とか出会いとか、いや死別をも超えている愛が描かれ語られているのが、このお話の魅力です。
その愛の中で、子ねこたちが育って、やがて「それぞれにどこかへいきました」というくだりが心を打ちます。
”「あいつらも りっぱな のらねこに なったなあ」と、ねこはまんぞくしていいました。「ええ」と、白いねこは いいました。そして、グルグルと、やさしく のどを ならしました。”
親の目というものには、子どもたちの成長を見守っていく、観察の目、冷静な目、広い目、長い目、全体への目、責任の目の視座が必要でしょう。
いわば「三人称の目」です。
また親自身が必死になって生きている姿も大事です。そんな時、親の目は鋭かったり、内省的であったり、沈黙していたり、考えたりしている目を持っています。
いわば「一人称の目」です。
子どもはそんな親の目は知りません。親の背中を見て育つからです。
でも、何と言っても、大事なのは「二人称の目」でありましょう。
夫と妻が、二人称で向かい合う目の中から子どもは与えられたのですから、そこは子どもの存在の原点なのです。
二人だけの眼差し、輝いた瞳、演技があり、表情に彩られた眼差し、そんな眼差しに包まれている時、子どもはスクスクと育つのではないでしょうか。
もし「神」がいまし給うならば、神は、私たちの「二人称の目」の生活経験を通して語り給うのではないでしょうか。
”愛のうちにいる者は、神におり”(ヨハネ第一 4:16)
と聖書にもあります。
何よりも愛、一冊の絵本が、そう語りかけているような気がいたします。
子供の自立と親の責任(1997 いずみ幼稚園)