なによりも愛(1989 保育)

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「母のひかり」(キリスト教保育連盟)1989年7月号 所収

(神戸教会牧師・いずみ幼稚園園長12年目、健作さん55歳)

 ぼくの好きな絵本の一つに、『100万回生きたねこ』(佐野洋子作・絵、講談社 1977)があります。うちの幼稚園でもかなり読み込まれて古びています。子どもたちも好きなのでしょう。

「ある とき、ねこは王さまのねこでした。……」と書きはじめられているねこは、船のり、サーカス、どろぼう、おばあさん、小さな女の子、そして誰のねこでもないりっぱなのらねことして、100万回も、生きては死に、また生き続けるのです。鋭い目をした強いねこです。ナルシストを思わせるように、自分が好きなねこです。およめさんになりたくて寄ってくるねこたちに、「おれは100万回も、死んだんだぜ」と誇らしげに語ります。でもそんな言葉には見向きもしない、美しい白いねこがいます。彼の自慢にも「そう」と言ったきりでした。ねこは、腹を立てました。次の日も、次の日も、ねこは白いねこのところへ行きました。サーカスの宙返りもしてみせました。でも、やがて「おれは、100万回も……」と言いかけて「そばにいてもいいかい」と尋ね、やがて伴侶になるのです。

 子ねこも生まれて、それぞれりっぱなのらねこになって家を出て、やがて白いねこは、おばあさんになりました。やがて死別します。ねこは、はじめて夜から朝、朝から夜へと100万回も泣きました。やがてねこは静かに動かなくなり、「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした」とお話もおしまいになります。

 時々、結婚カウンセリングなどで、若い二人に読んで聞かせることもします。それは、決して、男の子が「100万回も……」も突っぱっているからというわけでありません。男というものは、多かれ少なかれ、そんなところを持っていて、100万回くらい死なないと直らないことも事実です。そんな突っぱりも包んでいく、存在とか出会いとか、いや死別をも超えている愛が描かれ語られているのが、このお話の魅力です。

 その愛の中で、子ねこたちが育って、やがて「それぞれにどこかへいきました」というくだりが心を打ちます。

「『あいつらも りっぱな のらねこに なったなあ』と、ねこはまんぞくしていいました。『ええ』と、白いねこは いいました。そして、グルグルと、やさしく のどを ならしました。」

 親の目というものには、子どもたちの成長を見守っていく、観察の目、冷静な目、広い目、長い目、全体への目、責任の目の視座が必要でしょう。いわば「三人称の目」です。

 また親自身が必死になって生きている姿も大事です。そんな時、親の目は鋭かったり、内省的であったり、沈黙していたり、考えたりしている目を持っています。いわば「一人称の目」です。子どもはそんな親の目は知りません。親の背中を見て育つからです。

 でも、何と言っても、大事なのは「二人称の目」でありましょう。夫と妻が、二人称で向かい合う目の中から子どもは与えられたのですから、そこは子どもの存在の原点なのです。二人だけの眼差し、輝いた瞳、演技があり、表情に彩られた眼差し、そんな眼差しに包まれている時、子どもはすくすくと育つのではないでしょうか。

 もし「神」がいまし給うならば、神は、私たちの「二人称の目」の生活経験を通して語り給うのではないでしょうか。

「愛のうちにいる者は、神におり」(ヨハネ第一 4:16)と聖書にもあります。何よりも愛、一冊の絵本が、そう語りかけているような気がいたします。

子供の自立と親の責任(1997 いずみ幼稚園)

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