国家の醜貌(しゅうぼう)《マルコ 7:1-15》(1989 説教要旨)

1989年6月18日、聖霊降臨節第6主日
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

マルコによる福音書 7:1-15、説教題「国家の醜貌」岩井健作

 ”それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた……かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである”(マルコによる福音書 7:14-15、口語訳)


 今日は、マルコ福音書が描くイエスについて学びます。

 マルコがよく用いている「群衆(オクロス)」という言葉に目を留めたいと存じます。

 この語は、マルコ福音書に36回、用いられています。

 パウロ書簡には一度も用いられておりません。この理由については、どこかでまた触れます。

 マルコ福音書が「オクロス」で、どういう人たちを表現しているかというと、「取税人」「罪人」などで、当時の教条的な律法学者・パリサイ人らが、社会から排除しようとした人たちです。

 「オクロス」は権力に操られ易い人々でもありました。

 イエスは「弟子」と「群衆」とを区別して語っています。(マルコ 8:34、9:14、10:46)

 弟子たちが批難された記事はありますが、群衆への批難は見当たりません。

 「オクロス」は、支配階級から疎外され、ある場合には対立した人々でした。


 さて、マルコ7章1〜15節の背景には、エルサレムから来たパリサイ人と律法学者が、手を洗わないで食事をするイエスの弟子を批難した、ということがあります。

 当時、洗わない手で食事をすることは、聖潔の律法を侵すことであり、これを破ると「アム・ハー・アレツ(地の民)」という汚名を着せられ、差別をされました。

 この重荷となる制度への批判の言葉、あるいは解放の宣言が、人を汚すものは外からのものではない、かえって人の中から出てくるものだ、という言葉です。

 マルコ7章1〜15節の中で、元来のイエスの格言は、1、2、5、14、15節の各節に含まれており、イエスのこの大胆な説話の聴き手が群衆(オクロス)だったとの主張はマルコの特徴です。


 群衆を「聴き手」として語る、ということは群衆を主体的な人格として信じるということであります。

 これは「アメとムチ」で操作をすることとは別な水準の関わり方です。

 「アメとムチ」を巧みに駆使するのが「国家」の論理であるとすれば、それに組み込まれない人間関係の築き方です。

 回り道でも、このことに賭けたのがイエスであり、そこにイエスの「神の国」の逆説があります。


(2週間前の)1989年6月4日は、世界史的に「国家の醜貌」を悲しむ日となりました。

 沖縄でもかつて銃口は群衆を倒しました。

 しかし、国家ではなく「オクロス」が主体であることをイエスに従って信じる者とされることを祈ってまいりましょう。

(サイト記)本文中「1989年6月4日」の出来後は後に「天安門事件」と呼ばれる。この礼拝の週6月23日は「沖縄慰霊の日」にあたる。

(1989年6月18日 説教要旨 岩井健作)


 6月21日(水)〜23日(金)東京出張
教団「沖縄合同とらえなおし」特設委員会出席

1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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