1989年5月7日、復活節第7主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
5月9〜10日、東京出張
「沖縄合同とらえなおし」特設委員会出席
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)
サムエル記上 20:1-42、説教題「ダビデとヨナタン」岩井健作
”主が常にあなたとわたしとの間におられます”(サムエル記上 20:23, 20:42、口語訳)
今、私たちが読んでいる旧約聖書のサムエル記上の16章14節以下は「ダビデ台頭史」です。
サウル王からダビデ王へと政治史的には王国の政権が移るわけですが、その推移が宿している「神の側での事柄」(信仰的・神学的意味)というものを読み取るように、と語っているのがこの歴史叙述です。
歴史の舞台がサウル王の退場からダビデ王の登場へと移り変わることが、神の意志であることを、この歴史伝承は物語の冒頭で、また節目節目で告げています。(サムエル記上 16:14, 18:12)
”主がサウルを離れて、ダビデと共におられた” (サムエル記上 18:12、口語訳)
おそらく登場人物自身にもそのことはよく分かっていたことでしょう。
しかし、現実にはその第一歩が踏み出されると、かなり面倒な問題が持ち上がります。
例えば「人はすべて死す」ということは、誰しもが知っています。
しかし、いざ自分の現実の問題になると、それは大変なことです。
ここでも、サウルが退場しダビデが登場するという歴史の舞台での、別離・決裂・断絶の細部は、極度の緊張と涙をもって辿る他に道がないような事柄です。
これはサムエル記上が終わる31章まで続きます。
いや、サムエル記下の1章27節のサウルの死を悲しむダビデの歌まで続きます。是非お読みください。
”……ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた」。”(サムエル記下 1:27、口語訳)
さて、今日の20章は、サウルの王子ヨナタンとダビデ(ヨナタンの妹ミカルの夫)の友情の物語と言われています。
サウルがダビデの殺害を図ろうとする、その間にあって、ヨナタンは苦しみます。
親友である者との別離は、心のうちでは分かっています。
しかし、最後の糸が断ち切れるまでの、しっかりとその過程を丁寧に生きるのが「神の歴史」を生きる者の姿であることが示されています。
(1)1〜11節。「わたしと死の間は、ただ一歩です」(20:3)
ヨナタンよりもダビデの方が、サウルの殺意をはるかに深刻に捉えています。
(2)12〜17節。「ヨナタンは自分の命のように彼を愛した」(20:17)
愛とは《間にあって》「血」の関係(ここでは父子の直接性)を凌駕する苦しみでしょう。
(3)18〜34節。「サウルはヨナタンを撃とうとして、やりを彼に向かって振り上げたので…」(20:33)
残酷な別れです。
(4)35〜42節。「ふたりは互いに口づけして泣いた」(20:41)
別離の号泣は、神のサウル王放棄を悼む涙でもあります(参照 W.リュティ)。
「主が常にわたしとあなたの間におられ」(20:42)
交わりを作り出すことに破れ多い私たちを包む言葉です。
この言葉は、はるかに新約聖書の主イエスを暗示しないでしょうか。
(1989年5月7日 説教要旨 岩井健作)
1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)