神の語りかけ(1978 元旦説教)

1978年1月1日 岩国教会礼拝説教
1978年1月8日 岩国教会週報「先週説教より」

”神は、むかしは、預言者たちにより…語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られた”(ヘブル人への手紙 1:1-2、口語訳)

 新しい年のはじめ礼拝に戻ってまいりました。それは今日が一年の1番はじめの日だからという訳ではなく「主の日」即ち神がイエスにおいて救いのわざを成し遂げ給うたことを憶え、私たちが罪を告白し、聖書を通して神の「みことば」を聞き、神を賛美し、献身の志を新たにするために与えられた日だからです。集まったというより、聖霊の働きを通して私たちをここに集めて下さったというべきでしょう。

 私たちは生活の桎梏をたずさえて集っています。語りたいことをたくさん持っています。もし聞いてくれる人があるならば。でも礼拝は「信仰は聞くことによるのであり」(ローマ 10:17)というように聞くことの訓練からはじまります。これは「語りたい人間」には少しつらいことです。神に聞くことがいかに難しいかは旧約聖書に示されるイスラエル民族の歴史がそれを物語っています。ヘブル書1章1節はそのことを言っています。預言者を用いての語りかけの未完結さがそれを示しています。

 そして「御子によって語られる」という特別な神の語りかけがその未完結さを充していることが示されます。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ 10:45)とあるように「あがない」を通しての語りかけです。

 いのちを与えての語りかけの時に黙することを大切にしたいと思います。

 寡黙にならざるを得ない時は大事な時だと思います。そこに「御子によって」神が共に居まし給うが故に。

(1978年1月1日 岩国教会礼拝説教 岩井健作)

BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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