児戯の復権

児戯の復権

神戸教會々報 No.121 所収、1988.12.18

(健作さん55歳)

イエスは声をあげて言われた。「……あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。……」 マタイ 11:25-26


 児戯。いささか侮りを含んだこの言葉は、大人の分別と共に古いものであろう。「児戯に類す」とは取るに足らぬつまらないことを言う。つまらない事はつまらないと言えばよい。子供を引き合いに出すところに無意識に潜む子供蔑視がある。それはまた大人の社会的分別でもある。私たちの現実は、その分別を投げつける側であったり、投げつけられる側であったりする。それ相応の分別者としてこの社会に位置をしめながら、しかし時としては分別者の言葉に傷つく。まして、自らが弱者、少数者、被差別者、被抑圧者等々、小さき者に身を置く場合、その場での精一ぱいの営みが、児戯などと言われるならば悲しみ沈み、また怒り叫ばざるを得ない。イエスの祈りは、その精一ぱいの叫びを宿している。

 マタイによる福音書では、祈りは「天地の主なる父よ」で始まっている(25節)が、これは元来「アッバ」(イエスの日常語アラム語、「お父さん」の幼児語。伝承過程で改変)であったという。イエスは「知恵ある者、賢い者」と対比して「幼な子」に目を注ぐ。前者は、当時のユダヤ教の律法の教師、ユダヤ知恵文学の精神的系譜を引く知識人であり、後者は「ネーピオス(幼な子、愚者、未熟者、小さい者)」という語感が示す通り社会的にはマイナスイメージの者である。神に依り頼み祈る以外に生きるすべを持たないよるべなき者である。イエスが「アッバ」と祈る時、その切なる思いがこれらの人々を包んでいる。その慰めにあずからない者があろうか。イエスの誕生物語も、世の分別からはみ出た数々の象徴に満ちている。人口調査という国家管理と馬小屋の誕生等。だがその馬槽(まぶね)の光に世は照らされている。


 先般、遅ればせながら、ミヒャエル・エンデの『モモ』(岩波書店 1973)を読んだ。

「時間どろぼうと、ぬすまれた時間をとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語」という副題がついた、幻想的な童話形式のお話であるが、痛烈な現代文明批判を宿している。
 主人公のモモは背が低くやせて、裸足でダブダブの大人の古上衣をまとい、生地不明で、ある大都市周辺の円形劇場の廃墟に住みつく風来坊の少女である。彼女の財産は黒く美しい目と、他人の話をよく聞くという不思議な才能である。彼女は、巨大な現代都市に暗躍して、個々人から固有な時間を奪うことで生存する「時間貯蓄銀行」の「灰色の紳士」たちの巨軍に戦いをいどみ、大人たちの奪われた時間をとりもどして来る。そこには、時間の知覚をめぐって大人の「孤立」の分別と子供の遊びを通しての共通感覚が鋭く対比されている。モモは異次元からの救世主をすら暗示している。

 哲学者の中村雄二郎氏は『共通感覚論』(岩波現代文庫 1979)で『モモ』にふれて、人の話をよく聞くことは、他者の立場に自分を置く能力であり、共通感覚の持ち主にして初めて可能になる。灰色の大人の時間と対比された子供の根源的時間感覚に、共通感覚の復権をみている。

 私たちの日常的営みや社会的活動の中には「児戯に類する」ことは多くある。実利では計ることの出来ない営みはその側面を持つ。しかし、「児戯」「虚業」の復権が、我々を「みどり子イエスの誕生」の場へと導く。

「星の時間て、なんなの?」とモモが問うと、時間を司る人、マイスター・ホラは「まったく一回きりしか起こりえないようなやり方で、たがいに働くような瞬間のことだ」という。そんな時を心に宿すクリスマスでありたい。