群衆の一人 − 弾圧下の中国学生を悼む

群衆の一人

神戸教會々報 No.123 所収、1989.7.9

(健作さん55歳)

それから、イエスは群衆を再び呼び寄せて言われた……かえって、人の世から出て来るものが、人をけがすのである。 マルコ 7:14,15


 イエスは「群衆を呼び寄せて」語られました。さりげない一句ですが、マルコによる福音書を注意して読むと、イエスはことさらに「弟子」と「群衆」を区別して語りかけています。「弟子」はしばしば、イエスに叱られています。私たちも折々「神様に叱られる」ことがないと、信仰が育たないという経験をします。「弟子」はその意味では、「神の国」の言葉の担い手として絶えず訓練されるべき人たちでした。「群衆」はそのような関係ではありません。マルコが「群衆」と呼んだ人々には、当時の支配階級の人たちから差別をされたり、疎外された人々が含まれていました。「遊女」「取税人」「罪人」「悪霊につかれた人」「病人」などです。「律法」によって「神」に至る道を閉ざされている、と看なされていた人々です。イエスは、この人たちを「深くあわれまれた」(6:34)とあります。しかし、福音書を読むと、このような「群衆」が支配層に扇動されて、イエスを十字架につけよ、と叫んだともあります。群衆はあやつられやすい存在でもあります。マルコ福音書は、このありのままの「群衆」をイエスと共に記します。

 言葉の概念が現実を規定するのか、逆に現実が言葉の中身を規定するか、ということは大事なことであります。例えば、さりげなく使っている「国民」という言葉も、概念が現実を規定すると、「国」に忠実でない人は「非国民」と呼ばれたりします。しかし、歴史の中では、その時の国、即ち政府の政策に異を唱えて「非国民」呼ばわりされた人が、あとで考えると、大切なことを発言し行動していると思われることがあります。沖縄の知花昌一さんだとか長崎の本島等市長などもそうだと思います。聖書でも、概念が現実を規定する用法では、「神の国」を意味する「民衆(ラオス)」という言葉があります。ところがマルコはその言葉を用いないで、「群衆(オクロス)」を用いました。これは、現実から思考することの現れでありましょう。


 さて、イエスが「群衆」に語ったということは、驚くべきことです。語るというのは、扇動したりして政治的に群衆を動かしたということではなく、群衆一人一人の心の内面にとどくように語ったということです。抑圧の中でどうすることも出来ない、心の苦悩をもった人たちに呼びかけることです。自分で自分に言い聞かせて、あきらめにも近い情念を、自己自身の内に宿した人たちです。朝鮮・韓国には「恨(ハン)」という抑圧の情念を表す言葉がありますが、それになぞらえれば「恨」を宿した人々です。そこでは、恐ろしいまでの自己との内面的戦いがあります。イエスはその心の奥深いところに向かって語ったのだと思います。下手をすると政治的直接的支配・管理・説得になりかねない「アメとムチ」の国家の論理に曲げられてしまうかもしれません。その「群衆」に向かって、その一人にでもと語りかけたイエスの営みは、途方もなく遠大な試みです。

 1989年6月4日、中国の「血の弾圧」のさ中、戦車の砲塔に素手でよじ登って指揮官に「自制せよ!」と言葉で説得したのは王偉令君(18才)でした。彼はその後捕えられ処刑されたと伝えられます。悲しみを抑えることはできません。しかし、彼は軍隊の中にいる群衆の一人に語りかけた人です。彼もまたイエスを証している一人ではありますまいか。


(サイト記)本文は現在「天安門事件」と呼ばれる1989年6月4日の出来事の直後に書かれました。