ゲラサ人のイエス《マルコ 5:1-20》(1989 説教補助・マルコ5:1-20を読むために)

1989年7月9日、聖霊降臨節第9主日
(当日の神戸教会週報に掲載)
翌週「夏期特別集会:講師 大貫隆氏」
土曜「神戸教会神学講座:大貫隆氏 “教会と世”」

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

マルコによる福音書 5:1-20、説教題「ゲラサ人のイエス」岩井健作

”自分にイエスがしてくださったことを”(マルコによる福音書 5:20、口語訳)


 ”聖書を読む”という営みは、そこに何らかの”他者性”、自らへの語りかけを期待する”渇仰(かつごう)”にも似た思いを秘めていることではなかろうか。

 とすると、マルコ福音書が伝えるマルコ5章1〜20節の「民間説話的奇跡物語」を読むにあたって、そこに「現代人の病とキリストの救い」というテーマを類比的に重ね合わせて読む読み方をしてしまう人が多い。

 例えば、ある注解者は今日の箇所について次のように書いている。

 「私にはやはり、石で自分の体を傷つけずにはいられなかった人間の人間回復の物語、…しかもそれは、決して抽象的・概念的にではなく、もろもろの物語ディテール(細部)によって、物語られている。一つひとつが表徴としての意味を担ったディテールが組み合わさって、一人の人間の<新生>がイエスとの出会いによっていかに起こったかが物語られている。」

 私もこのように読んできたことがあるし、今もそのような”響き”を否定する気持ちはない。

 「墓場からの男」のように、自己の行き詰まり、実存的な「死」の体験がイエスによってたえず「いのち」へと呼び戻される事柄の信仰的投影として、この物語を読む自由は保留しておきたい。

 しかし、そのことは、このマルコのテキストに限定された固有な事柄ではない。


 別な方法でのテキストへの接近を試みたい。

 マタイ8章28〜34節との比較である。

 マルコは紀元65〜70年、マタイは紀元85年以降の成立とするならば、マタイがマルコのテキストに変更を加えたこととなる。

 比較して読んで、大きく異なるところは
 ① マタイは短い
 ② 地名「ゲラサ」を「ガダラ」に変更
 ③ 「豚」に「はるか離れた場所」の形容を追加
 ④ マルコ5:18-20の「ゲラサの癒された男が、自分にイエスがしてくださったことをデカポリスで宣教した」という部分を削除
 ⑤ 墓の男を二人にした
 等である。

 これには理由がある。

 逆に、その理由を考えることで、マルコの特質を考えることができる。

 結論のみを記そう。

 マルコは、ガリラヤ湖から南々東60キロも離れた、異邦人の地域の奥深く伝わる、およそキリスト教的(正統的)ではない民間伝説的物語にイエスを結びつけ、それを「弟子」でもないゲラサ人の男に語らせた。

 20節の「言いひろめ」は「宣教」を表す術語。

 つまり、伝統的、専門的枠組みを超えて、「自分にイエスがしてくださったこと」(マルコ 5:20)を語ることの重要さが示唆されている。

 「ゲラサ人」は「ゲラサ人のイエス」を語った。


“しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた、「あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい」。そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリスの地方に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ。”(マルコによる福音書 5:19-20、口語訳)


 我々も「自分にイエスがしてくださったこと」(マルコ 5:20)に注視したい。

 豊かなものがあるはずである。

 そこを自分の言葉で語り始める、そこに今日の宣教の主体がある。

(1989年7月9日 説教補助 岩井健作)


翌週16日礼拝
 「ラザロの復活 – ことばは力」ヨハネ 11:1-4、大貫隆氏(東京女子大学助教授)
16日午後
 夏期特別集会「今、聖書をどう読むか(Ⅱ) 福音書の働き」大貫隆氏
15日夜
 神戸教会神学講座「教会と世 – ヨハネ福音書の場合」大貫隆氏

1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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