1988年12月4日、待降節(アドヴェント)第2主日
(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん55歳)
ルカによる福音書 1:39-45、説教題「エリザベツの信仰告白」岩井健作
”エリザベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「…主の母上が、わたしのところにきてくださるとは…”(ルカによる福音書 1:41-43抜粋、口語訳)
「順序正しく書きつづって」(ルカ1:3)と、著者自らが言うように、「ルカによる福音書」は、文学的にも、神学的にも、実によく整えられた文書である。
序文に続く1〜2章は、イエスの誕生と幼年期の物語である。
この部分はイエスとヨハネの対比によって構成されている。
祭司ザカリヤ(ヨハネの父)への告知(ルカ1:5-25)、マリヤへの告知(1:26-38)があり、エリザベツとマリヤの母同志の出会い(1:39-45)があり、マリヤの讃歌(1:46-55)、ザカリヤの讃歌(1:67-79)と続く。
そして、2章はイエスの誕生物語である。
この箇所について、聖書学者たちが言っていることを要約すると、以下のようになる。
① 二人の誕生の告知伝承様式という文学的手法は、旧約やギリシア・ローマ文学にある。
② ルカは、バプテスマのヨハネを先駆者として位置付ける神学的主張を大枠としている。
③ イエスの公的役割を、幼児物語に投影させている。
④ 原始教会における信仰告白の要素が強く表されている。
本日は、前掲③と④を重ね合わせて考えたい。
エリザベツの言葉(ルカ 1:45)は、ルカ11章27節28節と対応している。
”イエスがこうして話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。”(ルカによる福音書 11:27-28、口語訳)
詳細を省いて結論のみ記すならば、「神の言は幸い」(ルカ11:28、8:21)とのルカ的主張がある。
また、冒頭に引用した「聖霊に満たされ…」以下は、原始教会の「聖霊による信仰告白」が背景にあるという。
”エリザベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「…主の母上が、わたしのところにきてくださるとは…”(ルカによる福音書 1:41-43抜粋、口語訳)
エリザベツは、「主がわたしのところへきてくださる」(ルカ 1:43)と告白する。
なお「主の母上」の「の母上」は付加的文脈上の表現であり、イエスを主と告白する信仰が前面に出ている。
これは、パウロが記す「神の霊によって語るものは『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない」(Ⅰコリント 12:3)と基本を一つにする。
”そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。”(コリント人への第一の手紙 12:3、口語訳)
「声高く叫んだ」は元来、原始教会の礼拝の讃美の祈りに端を発するという。
さらにこれは、原始教会の祈り「マラナ・タ(我らの主よ、来たりませ)」(Ⅰコリント 16:21-22)と深い関係を持つと言われる。
”ここでパウロが、手ずからあいさつをしるす。もし主を愛さない者があれば、のろわれよ。マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)。”(コリント人への第一の手紙 16:21-22、口語訳)
祭司ザカリヤの妻エリザベツは老年になって、経験、家族関係、社会的地位等々、いわゆる直接性の強い人間的しがらみを断ち切った所で、「信仰告白」を行なっている。
それは、マリヤ来訪に象徴される「主の来臨」への応答であった。
この「応答」をこそ明確にしたい。
(1988年12月4日 本日説教資料 岩井健作)
1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)