喜びのおとずれ(1988 石井幼稚園)

「石井幼稚園・石井伝道所だより」1988年12月 クリスマス号 所収

(神戸教会牧師・石井幼稚園代表役員 55歳)

大きな喜びを、あながたがに伝える。 ルカ 2:10


 重くるしい年の瀬を迎えようとしています。喜べないことがたくさんあります。リクルート疑惑にみられる政治屋たちの極度の腐敗。文部高級官僚も含まれています。知らない間に明治憲法下の「国家元首」程に実質的に戻ってしまい、日本人の精神生活、日常生活に重くのしかかる「天皇支配」の構造。それ相応なレベルの生活、といっても貧富の開きが大きく広がっていながらも、目先の消費に明け暮れる無気力な大衆。その渦の中から抜け出られない自分。

 朝、登園してくる幼な子の眼差しまでがなんとなくトロンとしているのが気がかりです。大人が喘いでいることの反映でしょうか。そんな子が多くなっているような気がします。

 喜びを、希望を、可能性を発見しないとダメになる。そんな焦りを持つ昨今です。

 大状況では勝負できない、日常のささやかな喜びを見つけよう、そんなささやきが心をよぎります。

しかし、そんな小市民性を打ち破るように聖書の言葉が、神の招き、促しとして、私たちの閉ざされた心を揺さぶります。

「大きな(小市民性を越えた)喜びを、あなたがたに伝える」

 そうか、喜びは発見するものではなくて、伝えられるもの、「おとずれ」なのか。

 自分で喜びを見つけ出そうなどとは高慢なことであった、と気づかされました。

 ふと、37年間、血友病患者として、車椅子者であり続けている伊地知健さんの言葉が心に浮かびました。

「障害を与えられなければ、こんなに多くの角度から物事を眺められず、旅にしても、その後のすべてのこと《結婚・子育て・ヘモフィリア(血友病)友の会の運動》に、これほどの大きな喜びを味わうことはなかったでしょう……困難があったことは事実ですが、それを通して主に委ねることを学ばされ、感謝の日々であったことは言うまでもありません。」

 クリスマスを季節の行事や儀礼として過ごすのではなく、生き方の転換を促される時として心備えしようではありませんか。

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