主を待つ心《マタイ 25:1-3》(1988 説教要旨)

1988年11月27日、待降節(アドヴェント)第1主日

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん55歳)

マタイによる福音書 25:1-3、説教題「主を待つ心」岩井健作


 今日から待降節(アドヴェント)を迎える。

 わが教会では、教会暦に従い、待降節第4主日にクリスマス礼拝を執り行うので、12月18日、日曜日がその日となる。

 待降節は主を待つ、信仰の季節である。

 考えてみれば、待つことは人生の根幹に関わる姿勢である。

 死を待つ、それ故に救いを待たない人生というものがあるだろうか。

 待降節は、単に待つこの意味を学ぶのではなく、「主」を待つことの一点に集中して、信仰感覚を研ぎ澄ます季節であることを覚えたい。


 今日の箇所「十人のおとめ」の譬(たと)えは、基本的にイエスに遡る譬え話である。

 ただ、現在私たちが手にしているマタイ25章1〜13節は、イエス以後の原始教会、さらにマタイ福音書の著者によって二重に付加・説話の主要力点の変化を受けている。

 マタイに即して言えば、当時の教会の関心事「終末の遅延」に対して、信者がそれまでの中間時をいかに備えるか、の倫理を説いている。

 その編集・付加部分(5-6節、11-12節、13節)を一応外して読む(三好迪・エレミヤス参照)と、ドラマは次の3つで構成される。

 ① 花婿と松明(たいまつ)行列の少女たち
 ② 花婿到来による少女たちの中の混乱
 ③ 予備の油を用意して出た少女たちの宴席への参加

 そこに見られる内容は、基本的に「神の支配は近づいた」(マルコ 1:15、ルカ 10:9 他)というイエスの使信の枠内にある。


 その使信とは、イスラエルがアブラハムの子として持っていた特権(神の選び、契約、律法)としての救いの破綻を意味する。

 イスラエルは、滅ぶべき罪人の総体である。

 その敵を審きつつ、しかし「愛敵の教え」(マタイ 5:44)の如く、イスラエルを救い、受け入れるところに「神の支配」の使信の新鮮さがあり、緊迫性がある。

 この基本線で譬えを理解するならば、譬えの聴き手は、審かれるべきイスラエルに身を重ね合わせつつ、ひたすらただ「神の支配」を「神の支配」として受け入れ、そこに身を服することへと心を向けて聴くべきだと思う。


 松明行列の役を引き受けながら、中途半端な対応しかしなかった少女たちは、また私たちの信仰生活のある部分を示している。

 この部分を克服して、成り行き任せではない、意志的な神への信従へと向かうことが、主を待つ心であろう。

 譬えは、審きを語っているのではない。

 「花婿が着いた。女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやに…」と喜びを告げている。

 そこに目を向けて、待降節を過ごしたい。

(1988年11月27日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

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