1978.8.20、神戸教会礼拝、
神戸教会週報、説教要旨は翌々週週報に掲載
(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん45歳)
マタイ5:13-16、説教題「地の塩 世の光」
選句 あなたがたは地の塩である。(マタイ 5:13)
このイエスの言葉が「わたしは地の塩である」というのでしたら、誰もがうなずくでしょう。
自分のいのちを世の人に与えたその生涯があってこそ、塩が溶け込んでものの腐敗を防ぎ、また味付けをしていく有り様が活きてきます。
しかし、イエスは「あなたがたは……」と言われます。
しかも「あなたがたは地の塩にならなければならない」とは言わずに「地の塩である」と言っています。
(このことについてはボンヘッファー『主に従う』上 p.135)
人は地の塩たる能力や働きを持っているが故に「地の塩」であるのではなく、イエスが地の塩であって、この世がイエスを通して神の愛に包まれ、神の福音によって世が支えられていることの故に、あなたも地の塩なのだ、と告げられています。
『行く先を知らないで』(青木優、教団出版局 1975)を著した青木さんは、医者になってインターンの途中失明し、全盲となった方で、後に牧師になって伝道界に入りました。
彼がハンディを負いながら、それ故に証が可能だと確信するに至ったのは、彼の意識とは関係なく、彼の聖餐にあずかる姿を見て、同信の友の次の言葉に触れたからだと言っています。
「なぜか、神がこの私をも深く愛し導いておられるのだという事実を深く感じることができたのです」(『行く先を知らないで』 p.79)
私たちの弱さまでが用いられて、地の塩となし給う主への信頼こそが、ここでは問われているのです。
「あなたがたは……」という言葉によってもう一つの側面を取り上げたいと思います。
マタイ福音書は本来、教会の成人教育、信徒教育の意図を持って書かれています。
ですから、この「あなたがた」は、主に従う弟子の群れのことを言っています。
マタイはここで塩の効き目がなくなったなら(原語は”バカになったら”の意。意図的に使われている)と、マタイの関わった教会の群れを批判しています。
成立以来、わずか数十年で「地の塩」を忘れた教会の姿があります。
世の悲しみや悩み・問題を負うことで目覚めさせられる”塩としての実存に固着する魂”を育て養わない教会への批判をマタイは語っています。
「あなたがたは……」との呼びかけを、私たちは世の苦しみを負い続けつつ、なおキリストの弟子であるための招きとして聞き取って参りましょう。
《祈り》
「地の塩」であるとの招きを感謝します。