主にあって一つ《Ⅰコリント 12:12-27、創世記 37章 ヨセフ物語》(1978 教会学校キャンプ礼拝説教要旨・週報)

1978.8.12(土)〜14(月)、教会学校キャンプ、
13日礼拝説教、於今田町田園学校、
参加者:教師25名、生徒82名
(説教要旨は翌週の週報に掲載)

(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん45歳)

2021 夏、丹波篠山市今田町の公園(田園学校の付近かも)

Ⅰコリント 12:12-27、キャンプ主題「主にあって一つ」
創世記 37章ヨセフ物語、説教題「主にあって一つ」

”彼を捕えて穴に投げ入れた。”(創世記 37:24、口語訳)

 今年の教会学校キャンプの主題は「主にあって一つ」です。

 聖書はコリント第一の手紙12章12節から27節です。

 そこには、手、足、頭、目、耳がそれぞれ別々の働きをしていながら、一つのからだに属しているように、「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢(し)体である」(Ⅰコリント 12:27、口語訳)と記されています。

「主にあって一つ」ということを本当に深く知るためには、私たちは自分が”独りになる”経験というものが大切です。

 キャンプには教会の友達と一緒で楽しいという面もありますが、また家庭から離れて、独りになって自分というものを見つめる時でもあります。


 今日は、創世記のヨセフ物語の中で、ヤコブの子供たち12人が、ただ兄弟だというだけでなく、「主にあって一つ」ということを知るまでにどんな道筋をたどったか、そしてヨセフが穴の中に投げ込まれたことが後々どんなに深い意味を持っていたかについてお話しします。


 ヨセフは12人兄弟の下から2番目で、弟ベニヤミンと共に、過保護なまでに父親の愛顧を受けていました。

 腹違いの兄10人は、怖いもの知らずで高慢なヨセフには我慢ができなかったと思います。

 ある時、ヨセフは自分の見た夢のことを兄弟に話します。

 畑の中で束を結わえていると、自分の束を、兄弟の束が囲んで拝んだというものと、日と月と11の星がヨセフを拝んだという夢です。

 この夢は、この兄弟たちの将来にとって、暗示に富んではいますが、父の庇護を良いことにして、ぬけぬけとそのことを語るヨセフの神経に、兄弟の彼への憎しみと妬みは我慢の限度を越します。

 そして、羊の群れを飼う兄弟のところへ、独り遣わされたヨセフを、彼らは殺そうと計ります。

 結果的には、殺されず、捕えられて、水のない深い穴の中に投げ込まれて、たまたま通りがかった隊商に売られ、遂にはエジプトの宰相にまでなって、兄達と再会する壮大な物語に発展するわけですが、暗い穴の中のヨセフが、どんなに自分というものと取り組み、自省、格闘し、そして兄達の怒りを通し、そこに自分に迫る「主」を身近に感じたことか、を想像します。

 主の前に独り沈む穴の中の体験がヨセフを強くします。

 ヨセフの12人の兄弟は、旧約聖書ではイスラエル民族の12の部族を表し、主にある交わりの原型です。

 若き日のヨセフを思い、主にあって一つの信仰を深めたいと思います。


 教会学校キャンプは、翌週8月20日の週報に次のように報告された。今田(こんだ)町は現在、兵庫県丹波篠山市。

 去る12日から14日まで二泊三日で、本校分校合わせて小学科69名、中高等科13名、教師25名が参加し、今田町の県立田園学校にて行われました。
 緑の木々、鳥のさえずり、川の水と豊かな自然の中で、教師生徒共に主にある一つのつながりの許、生活を通して学びました。
 みなさまの祈りと御献金によるお支えを感謝いたします。 校長 富川直彦


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