ぶどう園の労働者《マタイ20:1-16》(1978 説教要旨・週報)

1978.7.30、神戸教会礼拝、
神戸教会週報、説教要旨は翌週週報に掲載

(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん44歳)

マタイ20:1-16、説教題「ぶどう園の労働者」

「ぶどう園の労働者」のたとえ話は多くの人に親しまれています。

 この話から私たちはどんなイメージを与えられるでしょうか。


 確かに、夕方5時ごろまで仕事のなかった人たちが描かれてはいます。

 失業がどんなに辛いことか、本人の気持ちを察するのは難しいことでしょう。

 しかし、とにかく、この話は”ぶどうの収穫”という大変活気に満ちた話です。

 ぶどう作りは、パレスチナの大事な産業だったというだけでなく、聖書ではナボテの話(列王記上21章)のように、”ぶどう畑”は神から与えられた大切なものでしたし、賛歌をもって讃えられ(イザヤ書5章1節以下)、”ぶどう畑”そのものがイスラエル民族を象徴するようなものでした。

 ぶどうの生産に従事し、働く生活そのものが、主(ヤーウェ)の働きに思いを巡らし、その働きを信じ、幾分かでも肌で感じていく契機ともなるようなものでした。

 ですから、このたとえ話は、ある一つの思想の単なる比喩とだけ捉えることはできません。

 思想的に見れば、「人間のわざに対する神の恵みの優位」(夕方しか働かなかった人も恵みにあずかっている)ということを言ってはいます。

 しかし、この点でだけ捉えると、汗水を流して”ぶどうの収穫”のために労苦するという厚みが消し飛んでしまいます。

 このたとえ話の「生活の座」(どうしてこの話が語られたかという状況)は、イエスのファリサイ人批判ではなかったか、と言われます。

 当時のユダヤ教のファリサイ派の学者は、「神の救い」に関する律法議論には厳密でしたが「労働そのものが持っている”汗にまみれた匂い”の中からの喜びや希望」といったことには無縁でした。

 生活の労苦を分かち合う人たちへの共感や想像を持つことのない人々が、神の救いの働きについて、平気で論じていることへの”告発”を含んで、この話は語られたのではないでしょうか。

「愛情欠如よりも想像力の欠如が、人間を利己主義にさせている」と言ったのは、三木清ですが(『人生論ノート』)、自分が置かれている立場からしか”ものを考えない”というのは、ファリサイ派に似ていないか、と反省させられます。

 イエスは、イスラエル共同体全体のために、”泥臭い働き”を負われました。

「ぶどう園」への招きは、そのことを意味していないでしょうか。

 各人が「自分にとってのぶどう園とは何か」を想像力豊かに考えさせられるのが、このたとえ話です。

 名もなく、遅ればせでも、その働きに参与することを招いている「ぶどう園」としての働きの場は、きっとあるものです。

 そして、そこへの招きも。


《祈り》

 父なる神、自分のことばかり考えている狭い心を広くし、あなたが実を結ばせる働きに加えられ、遅ればせでも、喜びにあずかることができますように。


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