ユダの汚辱(2010 田中忠雄 ⑥)

2010.3.17、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑥」

(明治学院教会牧師 健作さん76歳)

マルコ福音書14章10節−11節、43節−50節

 聖書の福音書に出てくるイエスの弟子の一人ユダはイエスを裏切って、ユダヤ官憲にイエスを引き渡す役割を担った。今日とりあげた田中忠雄さんの絵はそのユダをテーマにしている。「ユダの汚辱」という題がつけられている。弟子ユダが師であるイエスを金で権力者に売りわたした一連の物語が絵になった経緯を、田中さんは創作ノートに書き留めている。まず、それを読んでみたい。

「あれは昭電疑獄が大きな社会的関心をよんでいた昭和29年だった。日本がまだ戦後の苦境から抜けきらずにいる時に業者と政治家のくされ縁のばくろに、わたしはこれを画にして見せてやれと思った。ちょうどこの時、毎日新聞の現代美術第1回展が企画されわたしも招待をうけたので、さっそくとりかかった。かの時代も今も、西も東も変わらない人間の弱さとあさましさ。伝説によればユダは自ら首を吊って死んだというが今の政治家は政治献金という名のもとに自分の汚れを覆いかくそうとする。そればかりではない。彼らはいつの間にか裁きの手から逃れているではないか。そしてユダの現代版が年ごとに役者を代えて出てくる。彼らはそして鮮度の高いテーマをわたしたち画家に与えてくれる紳士たちである。」(創作ノート『『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.108-109)

 この文書から察するに、この事件は田中さんに相当な憤りを呼び覚ましたと思われる。それが製作意欲になっている。

 筆者注1「昭電疑獄」化学肥料会社昭和電工が復興金融金庫の融資を受けるために政界に多額な賄賂を行った事件。1948年6月以後、社長日野原節三をはじめ芦田均首相以下44名が起訴され、芦田内閣が総辞職した。

 筆者注2.ユダについての最近の研究書には、荒井献著『ユダとはだれか − 原始キリスト教と「ユダ福音書」の中のユダ』(岩波書店 2007)がある。ユダの裏切りについては西洋美術には沢山の図像があるが、上記書物には「ユダの図像学」として石原綱成氏の研究が載っている。

 さて、この絵は、一枚のキャンバスにユダの行為の三場面をいれたユニークな構図になっている。

 右上はユダがローマ兵や祭司長たちをイエスのところに案内している場面であろう(ヨハネ18:3)。

 左上は、ユダがイエスに近寄り接吻する場面を想像させるが(マルコ14:45)、巻き物を見せているようでもあり、場面がはっきりしない。右端の目の鋭い人物はユダであろうか。この絵の中にイエスが存在しないとは考えられない。とすれば左から二番目の人物ではないか。田中さんは1958年には「イエスを売る」といういわゆる「接吻」の場面の作品を製作している。

 下の段は、祭司長たちがユダに銀貨を支払う場面(マタイ26:15では30枚、マルコは額はなく約束のみ、ルカ22:5は、与えることで一致した)。密かに地下で不正な金の受け渡しが行われていることを暗示しているのか、場面は暗い地下を暗示していて、地上とは大きな岩で一線を画されている。

 1954年の作品であるが、この頃は田中さんは、世の中の社会的事件と聖書のテーマを重ね合わせて創作をしている。「基地のキリスト」など。

 この絵も、鋭い線で描かれた角張った人物像、全体に暗く沈んだ色調が、時代の雰囲気を表している。ユダの目が特別に鋭く描かれていることに、狡猾に時代を泳ぐ人間像が暗示されている。創作ノートの「人間の弱さとあさましさ」を表現して、時代の「汚辱」を、かの時代と重ね合わせて表現しているところがユニークである。

「汚辱」とは「けがし、はずかしめること」(広辞苑)とあるが、ユダがイエスの物語をけがし辱めているという意味であろう。昭電工事件・昭電疑獄が一国の内閣を総辞職にまで追い込んで行く、その時代の事件を田中さんは民衆、強いては人間全体が辱めを受けているという感性で受け取り、画家としての受け止めをしたのであろう。

 聖書がユダを登場させている意味は、人間の内なるユダの存在に気付かせようとする動機があるのであろう。この絵は、その意味で、外なる事件の告発であると同時に自らの内に向かっての問い掛けをも持っているのではないであろうか。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

7.アリマタヤのヨセフの行い

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