この人は神の子であった(2010 礼拝説教・マルコ・受難週)

2010.3.28、明治学院教会(186)棕櫚の主日

(単立明治学院教会牧師5年目、牧会51年目、健作さん76歳)

マルコによる福音書 15:33-41

1.正午から3時間に及ぶ暗黒(33節)を、イエスを侮辱し、嘲笑している者たちへの審判の徴(しるし)として、マルコは読者に示す。

 神殿の幕(38節)は、神殿の至聖所と外とを区別する幕で、閉じられていると「神の不在」を、開かれていると「神の臨在」を示したという。

「引き裂かれた」は神殿祭儀の終焉を意味している。

2.イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(詩編22編冒頭の言葉)は解釈が大きく二つに分かれる。

 詩編22編全体から考え、神への信頼の表明とする正統的解釈と、絶叫だと解釈する二つ。

 後者でも、大貫隆さん(聖書学)は「イエスの神の国のイメージネットワークの破裂の叫び」とし、笠原芳光さん(宗教思想史)は「神への絶望だ」だが「そこに逆説的な深い慰めと力づけ」があると述べる。

 聖書の読者一人一人が考えてみる大きな課題である。

3.しかし、むしろ大事なのは「本当に、この人は神の子だった」とのローマの百人隊長の告白だと思う。

 マルコは「神の子」宣言をすでに二度記録している。「あなたはわたしの愛する子」の表現である。
 ① イエスの洗礼の場面(マルコ 1:10)
 ② 山上の変貌の際(マルコ 9:7)

 しかし、イエスの最後の場面では、それを異邦人・軍人である百人隊長が、天の声を告白するところに特徴がある。

 先の大貫隆氏は、ここにマルコ福音書の中心思想を見ている。

 およそ《信仰》とは対極の秩序にある人が、その価値観・秩序から解放され、神の出来事を鮮明に刻印し、福音書(よきおとずれ)の証人となる。

 イエスの出来事は、このドンデン返しを起こしているのだという。

4.あるキリスト教学校で、女子生徒が1週間ほど家出をして帰らなかったことがあった。

 前年度受け持ちだったM教師は、少しでもお役に立つならと母親から事情を聞いて、自分なりに無事であることを祈ろうとしたけれど言葉にならない。

 学校帰り、教会に寄って牧師に話を聞いてもらい、自分の代わりに祈ってもらったという。その翌日、ふとした偶然からその女の子を見つける。

 牧師に電話をすると、黙って聞いていた牧師が電話口で声を出して泣いていたという。

「なぜ、会ったこともない女の子のために、牧師はどうして泣けるのか」と衝撃を受けた。

 そして彼は、なんだか知らないが、聖書の中の「ローマの百人隊長の”この人は、本当に神の子だった”」という言葉が心に浮んだという。

 この隊長は、軍人としていつも生死の境にある現実をくぐり抜けて生きていた。イエスの死刑執行の現場責任者として、イエスの死を一番近い距離で目撃した人間の一人だ。自分の立場や、しがらみを超えて、そのイエスの生き様と死が与える衝撃に、思わず応答した。

「この人は、本当に神の子であった」と。

”百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。”(マルコ 15:39、新共同訳)

5.最後に三人の女性が名前と共に登場する(マルコ 15:40-41)。

 逃げてしまったペトロ以下の男性弟子の悲劇的姿に変わる弟子像が窺われる。

「遠くの方から見ている女たち」(40節)に自らを重ねることに深い慰めがある。

”また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。”(マルコ 15:40、新共同訳)



礼拝説教インデックス

◀️ 2010年 礼拝説教

error: Content is protected !!