アリマタヤのヨセフの行い(2010 田中忠雄 ⑦)

2010.4.7、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ ⑦」

(サイト記)上掲画像は「19 アリマタヤのヨセフの行い The Act of Joseph of Arimathea, 1965」『田中忠雄聖書画集』教文館 1978 より、サイト編集者がiPhoneで撮影。許可を得たものではないので、削除する可能性があります。

(明治学院教会牧師 健作さん76歳)

マルコ福音書15章42節−47節(マタイ27:57-61、ルカ23:50-56、ヨハネ19:38-42)

「十字架」をテーマにした「キリスト教美術」作品は実に多い。これに関しては『キリスト教名画の楽しみ方「十字架」』(高久眞一著 日本基督教団出版局 1997)がその代表的なものを選んで論じている。しかしこれは、十字架から取り下ろされるイエスが中心にあり、それを嘆く、母マリヤが、いわゆる「ピエタ」(「敬虔な心、慈悲心」の意味・イタリア語、マリアがイエスの死体を膝に抱いて嘆いている姿の絵画、彫刻)として描かれる。

 田中さんは、創作ノートに書いているように、ヨセフを中心にしたという。

「アリマタヤの人、ヨセフのことは4つの福音書のどれにも記されていることは、彼がイエスの体の引取りを申し出たという行為がおびえきっていた弟子たちに深い感動を与えたことの証であったろう。そして後の画家や彫刻家たちの多くがこの主題に挑んだ。これを降架図といって、当然イエスの青白い体が構図の中心をなしているのだがわたしは焦点をヨセフにあててみた。アリマタヤの人ヨセフの名はこの果敢な行為によって2千年後の今も語られる。」(『田中忠雄聖書画集』教文館 1978、p.109)

 田中さんの絵は、ピテール・パウル・ルーベンス(1577-1640)の「キリスト降架(十字架降架とも)」の絵と構図がよく似ている(この絵は文学作品『フランダースの犬』に登場する。ベルギーのアントウェルベンの聖母大聖堂にあるが、主人公少年ネロは僅かなお金がないばかりに、絵に掛けられているカーテンを開けてもらえず見る事ができなかったという絵である)。

 巨大な十字架、掛けられた梯子、上に登っている人の横向きの姿、イエスを抱えるアリマタヤのヨセフ。ルーベンスの絵は堂々として、若く如何にも有力者議員というような積極的なアリマタヤのヨセフが赤い衣をまとって活動している。田中さんは、ヨセフを憂いと悲しみの中におき、重大事件の目撃当事者として描いている。イエスの下には、この場面の悲しみの中心である母マリヤがヨセフに縋りつくように描かれている。田中さん特有の白を基調として黒の線で輪郭をとり青・黄・緑を配色して厚みを出している。

(上掲画像は Wikipedia パブリックドメイン)

 さて、福音書に描かれたアリマタヤのヨセフとはどんな人物であるのか。

 福音書では生前のイエスの活動の場面には現れない。四つの福音書を比較してみると、原著のマルコはヨセフを「身分の高い議員、神の国を待ち望んでいた」者と好意的に記している。ルカはそれをさらに「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」(ルカ23:50-51節)と敷衍する。

 ところがマタイとヨハネは単に「弟子」とだけ記し、ヨハネは「弟子であるのに隠していた」と卑怯者であるかのごとくに述べる。マタイは「金持ちで」の一語で片付けている。いずれにせよ処刑された政治犯の「埋葬」は難しかった。それを行ったヨセフはやはり特異な人物である。このアリマタヤのヨセフについての異なる見方を聖書が収録していることに目を注ぎたい。

 イエスは、ユダヤの宗教権力者(サンヘドリン[議会]、祭司、律法学者)から告発され、ローマ帝国当局(総督ピラト)によって政治犯とされ、十字架刑の結末を招いた。

「十字架刑は、極めて不名誉な処刑方法とされ、また、何時間も断末魔の苦しみが続くので、最も残忍な処刑方法……イエス誕生時にはすでにエルサレムの丘陵で2千名以上のユダヤ人暴徒が十字架に架けられたといわれている」(『イエスの実像を求めて』教文館、ハイリゲンタール、新免貢訳)。

 アリマタヤのヨセフの行動は、きっと身の危険を招くほどのことであったに違いない。しかし、ヨセフの埋葬の申し出は人間的行為であったと想像される。それゆえ申し出が受け入れられたのではないか。権力者・死刑宣告・執行者ピラトがヨセフに人格的好意を示したことは大きい。しかしなおヨセフには「勇気を出して」(マルコ15:43)の行動であった。

 イエスの生涯にこのような出番を持つ人物が登場している意味は大きい。社会的地位もありイエスへの共感者である反面、イエスへの追従者としては極めて不明確である。彼も内面は挫折者であったであろう、その挫折を自分のできる行動に移せたところに、彼の勇気と人間的な善意があった。評価は別にして、彼しか出来ない出番を自覚的に活かしたところに注目をしたい。

 田中さんがここに目をつけた事は、田中さん自身の鋭い感性であった。

洋画家・田中忠雄の聖書絵から聖書を学ぶ(2009.12-2010.9)

8.トマスの疑い