書評『虹を追って − ある牧師の五十年』(渡辺英俊著):「二つの回路」を明確にしながら歩み続ける(2011)

2011年9月8日執筆、10月1日「キリスト新聞」掲載

『虹を追って − ある牧師の五十年』(渡辺英俊、ラキネット出版、2011年8月15日)

(日本基督教団教師、単立明治学院教会牧師、健作さん78歳)


「牧師」というものはこの国でほんとうにプロフェッショナル(専門職)であり得るのか。3・11以後、原発事故を巡って原発推進を担ってきた「御用学者」が問題になった。だが同じ原子力分野にいながら人間の命に寄り添い、それを闘い取るという観点から高木仁三郎氏は「市民科学者」といわれた。その意味からすれば、本書の「ある牧師」はプロフェッショナルな「市民牧師」である。国の内外で「御用牧師」が闊歩する時代に、その「50年」は重い。

 牧師が「牧師」であり続けるためには二つの回路が必要である。一つはこの時代に「最も貧しく」されている人々からの問い掛けを受け取る回路。もう一つは、聖書を読むことにおいて、イエスの原像に迫る回路。渡辺英俊さんはこの二つの回路を、明確にしながら歩み続けてきた。「御用牧師」はその回路を自覚しない。

 渡辺さんの自覚的軌跡はすでに8冊の著作によって訴えられている。近年のものを掲げると『現代の宣教と聖書解釈』(1986)、『片隅が天である』(1995)、『旅人の時代に向かって』(2001)、『地べたの神』(2005)、と日夜フィールドワークに多忙な生活の中では多作である。

 さて、9冊目の本書は、2011年2月11日、日本基督教団大阪教区主催の「2・11『教会と天皇制』を考える会」の講演「『磯子』から『なか』へ − 身を置く位置を問い続けて」の記録をまとめたものである。

 第1章「模索の4半世紀」は神学校を出て「フツーの牧師」として二つの住宅地の教会で伝道に従事する。「牧師」として必然的に、あの二つの回路を模索する。人間の問題は「在日韓国・朝鮮人の人権の問題」の運動から問いかけられた。もう一方は「史的イエスの問題」から問われた。

 折しも60年代から70年代の日本基督教団の若手のラディカルな問題提起者の問い掛けを神奈川教区で受け止めた。彼も入って苦労してまとめたのが、① 対立を認識する ② 切り捨てないでトコトン話し合う ③ 合意は実践する、の三点を含む「神奈川教区形成基本方針」であった。

 教団では社会委員長として、教団の変革に励む。時あたかも南米では「解放の神学」の運動が激しさを増していた。

 「神様は貧しい者、小さい者の味方である。イエスは最も低くされた者のところに行かれた。最も低くされた者として十字架にかけられた。神は私たちの神じゃないか。教会の教えと違うんじゃないか」(p.32)との問い掛けは、担任する『磯子』の「住宅街の教会」で、問題意識のギャップを深めた。

 辞任を決断し「解放の福音理解」を求め、英語を駆使してフィリピンに渡る。草の根の闘いに呼応する二つの神学校で1年間学ぶ。拝み倒してのお連れ合い共々の、53歳の「留学」であった。

 第2章「疾走の4半世紀」では、『磯子』の有志の仲間たちと横浜の在日の街に、中村橋伝道所を開設。それは「寿・移住外国人出稼ぎ労働者と連帯する会(カラバオの会)」が立ち上げられた時期でもあり、移住フィリピン労働者の問題を熟知する渡辺さんは有力な助っ人として否応なく関わることになった。

 寿は日本社会では排除され、受け入れられない人が集まる「寄せ場」である。神奈川教区はすでに「寿地区センター」を設けて専任牧師を一人おき教会のボランティアが中心になって、炊き出し、夜まわり、バザー、障害者作業所などの働きをしていたが、その隣に「なか伝道所」として移った。後半生25年の活動がそこで本格的になった。アルコール依存症問題の取り組み、「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)の立ち上げなどが記されている。

「4つのテーゼ」と実践に”虹を追った”渡辺牧師

 第3章は「4つのテーゼ」から成る。①「頭は尻の上にある」(啓示論)、 ②「神は低みにおられる」(神論)、③「キリストは十字架を負いつづけておられる」(キリスト論)、④「教会は低き者たちの共同体である」(教会論)と今までの実践を神学的に整理して語る。ここまでが講演録、ご本人もよくまとめたと感嘆する。

 さて、付論が3つある。Ⅰ は、岩井も同道したブラジル「解放の神学」を尋ねた旅の記録。岩井のスケッチをご本人は殊の外喜ばれ、表紙をはじめ賑わしに使ってもらった。旅行中に詠んだ短歌31首が和みを添えている。

 Ⅱは、福音書の「失われた羊」「安息日の穂摘み」の読み。批判的聖書学を用いて、「貧しくされた者たち」の場に身を置いて「イエスを読み解く」。

 Ⅲは、パウロの運動の地域性を明らかにした論考。パウロの教会を「都市社会下層の地域共同体」と論じ、そこでの「炊き出し」的食事の在り方が破綻して、現在の儀式としての聖餐が発生したことを考察する。「炊き出し」から後退する教会を浮き彫りにする。ここには「非受洗者への配餐」を排除する現教団正統派神学への批判が暗に込められている。

 筆者岩井は彼と同年輩であるが、牧師としては50年を、二つの回路を自覚的に捉えつつ「住宅街の教会」の成熟を願って身を削った。渡辺さんとは身の置き所を異にしているので、渡辺さんの身の置き所からの批判的視点は絶えず受けてきた。それなりの応答を、私の身の置き所から投げ返してきたつもりである。彼の「『被収奪地域』と私が呼んでいる移住外国人の送り出し地域は、もっと恐ろしい貧困の中に置かれている。寿にいても、私は自分がナマってくるのを感じます」(p.135)と語る自省の厳しさが、彼をプロフェッショナルな牧師たらしめている。

 今回の出版が、ラテンアメリカの「解放の神学」を学ぶ運動をしている小さな仲間「ラキネット出版」であることを喜ぶ。発行人の大久保徹夫さんの労をねぎらいたい。

(明治学院教会牧師 岩井健作)


渡辺英俊著『地べたの神』書評

教会は生きている − 住宅街と寿地区の狭間での教会論
(2009 北村慈郎著『自立と共生の場としての教会』書評)


ブラジルにて。手前から渡辺英俊牧師、健作さん、小井沼國光宣教師
書籍表紙のイラストは健作さんが描いたスケッチ、ブラジル「解放農地」
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