陳述書(2011 鎌倉・震災銭湯をつくる会)

2011.9.16 執筆、「震災銭湯をつくる会」代表・岩井健作
東日本大震災前から活動開始、鎌倉市議会に陳情

(健作さん78歳、「震災銭湯をつくる会」代表、明治学院教会牧師)

 この度、総務常任委員会で私たち「震災銭湯をつくる会」の陳情を取り上げて戴き、陳述の機会をお与えくださり感謝いたします。

1.被災の経験に加わる津波の問題

 ここ十数年の間に日本の私たちは阪神淡路大震災、中越地震、中越沖地震、東日本大震災と大きな地震を立て続けに経験しております。被災の出来事を語れば死者たちのこと、生命の危機・食・住・生活の破壊まで、多面にわたり言語に絶するものがあります。その中でほとんど表沙汰には論議されていないのが、震災時における入浴・風呂の問題です。

 私は阪神淡路大震災を神戸市中央区でまともに経験いたしました。私自身の被災は家族の死傷もなく住宅も半壊で済んだものですから、その日から救援活動に奔走をいたしました。遺体の安置所、弔い、病人の慰問、民間応急仮設住宅の建設、緊急生活資金、お米支援、もろもろに携わりました。しかし思い起こしてみると、お風呂の支援は考えてもみませんでした。

 この度、東日本大地震の救援にも参りました。津波被害の惨状と凄まじさには圧倒されました。

 折しも、神奈川県は災害時津波被害のハザードマップの見直しをしました。鎌倉の1498年の大仏の建屋の流失を思い起こさせました。津波は阪神には全くなかった緊急の課題であることを、お風呂の問題を考えるに当たって思わされました。

2.まずはもらい湯

 被災からの立ち上がりは、まず「自助」。被災者自身が気持ちをしっかり持たねばなりません。次に「共助」。暖かい支援が被災者を励まします。そうして最後は「公助」。国・県・市・町の迅速な施策、そして日頃からの備えがどんなに心強いでしょうか。

 私の被災の場合、お風呂のインフラ(水道・ガス)が回復したのは2か月あまり後でした。

 その間は、まず被災地外の知人宅でのもらい湯、他都市の銭湯、を利用しました。風呂に最初に入ったときの、安堵感と心身の安らぎを忘れることが出来ません。

3.公助としての自衛隊銭湯

 この度の東日本の震災後、5月9日、朝日新聞に載った「ひととき」欄の投書にこうありました。

「本日、約50日ぶりにお風呂に入れました。……裸の付き合いというか、女の人達とおしゃべりしながら、まさに生き返った気分です。お風呂に入ると余裕が生まれるんですね。『洗ひ髪 春の夜風が 接吻し』なんて詠みながら現実に戻る。2階すれすれまで水没した我が家。すべて流出し、これから先の不安は計りしれないが、まあ、何とかなるでしょう。……」(釜石市、61歳、女性)

 これはきっと自衛隊銭湯か、回復した銭湯での光景だと想像します。神戸の時には、自衛隊が全国で持っている「自衛隊の野外入浴設備」の24セットを21か所に運んで支援してくれました。利用者は延べ5万人でした。

 中越地震の時、川口町に行きましたが、自衛隊銭湯は大変喜ばれていました。東日本大震災の時も自衛隊銭湯は、市民の災害後の入浴の主流でした。しかし、範囲が広い災害では、決して十分ではありません。それに野外臨時設備には浄化装置はありませんから、衛生面では十分ではありません。神戸の場合、神戸市が自衛隊にクレームをつけ、自衛隊隊長が「緊急時にはとにかく風呂に入ってもらうことが一番だ」と弁明しています。

4.街の銭湯はなんといっても主役

 いち早く待たれた街の銭湯の回復は、神戸では長田区の銭湯が比較的早く回復し営業を始めました。厳冬の寒さの中、長蛇の列が出来、2時間待って10分の入浴という状態でした。でも、あちこちに散らばった長田区の人達は銭湯で「あんたも生きとったか」と安否と心の通いを得たのです。銭湯は単に入浴だけでなく、コミュニティーの回復だったのです。それは、江戸時代から街の交流の場でした。しかし、震災の度に銭湯は減っています。私が利用しこよなく愛していた神戸市中央区「花隈湯」も廃業になりました、それでも神戸市中央区は人口12万人に11の銭湯があります。東日本大震災では東京では8軒(加盟店780軒の内)が廃業になり、行政に支援を求める署名運動が広がっています。

5.行政での災害時の入浴支援体制の論議は鎌倉が初めて

 銭湯のこと特に震災時の入浴のことを、行政の問題として公に論議がなされていることは、今まで調べましたが、他に前例がございません。

 この度、私たちは、市議会が災害時の入浴につき、お考え戴き、お風呂問題を行政として検討・研究・推進して戴くよう働きかけてくださることを切に望みます。

 この運動を始めましたら、これに共鳴され、共同代表になって一緒にご尽力戴いている、酒井太郎さん(サカイクリニック院長)の御祖父さんは、近年まで、雪ノ下で「松の湯」を経営されていましたが、時流には抗えず廃業されました。街の銭湯は子供たちにも、家や学校では得られない「社会教育の場」だという経験を懐かしんでおられます。鎌倉をハイキングする人の中には、鎌倉駅近くには銭湯がないので大船まで出て銭湯に入って帰る人達が多くなっているそうです。地域の人々の利用以外に平時にはそんな利用の場になればとの思いを広げます。

 いろいろな角度から他都市にも波及するような思いを込めて、ご研究・ご検討を戴けたら、きっと市民の夢と安心を膨らませていただけると信じます。どうかよろしくお願いいたします。

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