十字架の死に至るまで − つまずきを通して真理は語られる(2011 聖書の集い・パウロ ⑤)

2011.9.21「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第21回「新約聖書 パウロの言葉から」⑤
フィリピの信徒への手紙 2:6-11

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

1.真理には、客観的真理と主体的真理があります。

 客観的真理とは自然科学などの法則をいいます。だれが計算しても1+1=2は変わりはありません。この中には天文学、物理学、化学、地学、生物学などが入ります。この真理の伝達は法則が分かれば伝わってゆきます。そのために実験などが必要でしょう。社会科学(政治学、法律学、経済学、社会学、歴史学、文化人類学など)の場合も真理は客観的です。人文科学(哲学、言語、歴史など)や文化科学(歴史的一回性や個別性を記録する科学)や心理学(精神または精神現象を研究で、自然、社会、人文の多岐な領域をにわたる性格を持つ)ではそこに人間が介在しますから、ただ客観的・実証的とはいきませんが、法則はその条件さえ考慮にいれれば客観的真理に属します。

 ところが、文芸などには、受け取り方によって、自分には真理と感じられることがあります。つまり主体的に真理であることの表現です。よく例に使われますが、坪内逍遥がシェイクスピアの翻訳で「I Love you」を「死んでもいいわ」と訳したという有名な話があります。文脈から、気持ちを伝える時、このような訳は成り立つでしょうが、英語の翻訳の答案としては落第です。死んで愛が示されるというのは、明らかに背理(出来れば死なないで愛を実現したいという道理には背いています)です。文学では「それ程に愛している」という意味で使っていますが、客観的真理ではなく「愛」は主体的な真理に属して語られます。

 宗教など「生きる」ことに関わる真理はただ客観的真理として述べて、それでよしとするわけにはゆきません。今日のところは、そのことでパウロが苦労している様がよく出ているところです。宗教が「教義・教理」として表現される時は、客観的表現を取ります。「神は愛なり」など。

 しかし、神が愛であるとは、あなたにとってどういうことか。それをどのように表現したら真実な表現になるのでしょうか。

2.フィリピの2章6節-11節は、パウロが「原始教会」から受け継いだ「キリスト賛歌」の引用です。

 ここでは2つのことが語られています。

 6−8節は「キリストの人間化、謙卑[空しくすること、ケノーオー]」。

 9-11節は「キリストの被挙[高く挙げられること。エプーライノス、天の上]」。

 これは救済者が天から地上に下ってきて、人間の姿で苦しんで、天にまで引き上げてゆくという、救いの構造を言っています。

① もともとは、覚知主義(グノーシス)の救済論です。

 天に帰ることの出来る「優れた知識」を救済者から授かって、悟りを得て天に帰る救いの理解です。グノーシスは、キリストをそのような救い主として理解していました。平たくいえば「水戸黄門さま」が現れて「この紋所が見えぬか」といって、その紋所の力で救いが実現するようなものです。

② 原始教会は、そのグノーシスの理解に、キリストはただ「へりくだった」だけではなくて「死に至るまで」を加えて、キリストの人間化は徹底した死をもって示されたのだ、われわれを救うために「死んでくださったのだ」を付け加えました。

 しかし、そのことが、いつの間にか「教義・教理」のように客観化されて、当時の信徒の心にというか、実存にというか、主体を揺り動かすような救いの出来事ではなくなっていたのです。

③ そこでパウロはフィリピへの手紙を書く時に「十字架の死に至るまで」を書き加えました。

 十字架の死はただの死ではありません。反逆者への処刑の死です。この世の価値観に向かって「否」を唱え、この世の秩序を否定する所の極みで「殺された死」です。

 力の論理からいえば「無力」だったのです。だがその「敗北・無力」こそ意味があるのだ、そこに救いがあるという逆説です。

 原始教会的理解の人には「つまずき」であったかもしれません。パウロは自分の弱さ(病気)を取り除いてほしいと神に祈った時

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリント信徒への手紙 二 12:9、新共同訳)

 という天よりの言葉を聞きます。

 弱さの現実をありのままに受け入れて「つまずき」をテコにして、現実を突破してゆくのです。「弱い時に強い」という逆説が述べられています。

 このパウロの真理を受け取るのは私たちの主体的在り方になります。パウロの「十字架の神学」(コリント一 1:18、2:2)をおうむ返しに口ずさめばよいのではありません。パウロ主義者になることではありません。

「十字架につけられ給ひしままなるキリスト(ガラテヤ 3:1)」を自分の事としてゆくことなのです。

◀️ 聖書の集いインデックス

▶️ 愛は疾走する(2012 聖書の集い・コリント ④)

▶️ 悲しむ力、喜ぶ力 − 人間は関係存在(2011 聖書の集い・パウロ ⑥)