神様の”お願いします” (2012 礼拝説教)

2012.12.19 執筆、関東学院六浦中学校 クリスマス礼拝

(明治学院教会牧師 健作さん 79歳)

フィリピの信徒への手紙 2章6節−11節

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、従順でした。」(フィリピ 2:6-8)

 私は長年幼稚園の園長を務めさせて戴きました。子供は遊ぶことが天性ですから、「園長先生遊んであげる」と一緒にたくさん遊ばせて戴きました。ある幼稚園の教師がこんな話をしていました。子供が先生に聞くのです。

「先生はおとな?」
「ええ、おとなよ」
「どうしておとななのに毎日遊んでばかりいるの?」
「ううーん、先生はこれがお仕事なんだけどなー」。

 大人を意識させないで子供と遊ぶことが出来る幼稚園教師は”ほんま者”の一人前だなと思いました。

 園長として、どんな子供になって欲しいかとの想いを私なりに持ってきました。

 「お願いしまーす」「ごめんなさーい」「ありがとー」が自然に出てくるような感性を持ってほしいな、と思ってきました。

 最初の「おねがいします」ですが、これがなかなか身につきません。

保育中に、こどもはオシッコにゆきたくなると、「先生、オシッコ」と言います。たいがいの保育者は「早くいっていらしゃい」なんて言ってしまいます。

 ところがなかなか骨のある保育者は「先生は、オシッコではありません」とケロリとして言います。子供は一瞬困ったような表情をしますが「先生、オシッコに行っていいですか」と言い直します。「どうぞ、いっていらしゃい」ということになります。相手に甘えないで、自分の思いや、気持ちや、主張を、はっきり言葉で表現するのが「お願いします」の第一歩です。自分というものをはっきり持たないと「お願いします」が出て来ません。

 自分をはっきり持つと言うことで思い出すことがあります。

 16年前、阪神淡路大震災という大きな地震がありました。わたしは神戸の街の真ん中でその大地震を経験しました。わたしの知っている、小学校の校長先生が、地震に出会って、頭で覚えた知識は役立たなかったが体でおぼえた知恵は役立ったと言っていました。

 水がない、水をもらいにゆかねばならない、容れるものがないという、水はバケツ、ポリタンク、ヤカン、タライに入れるものという知識は持っているが、咄嗟の場合に役に立たない。ところが機転の利く子供は、ダンボール箱にゴミ袋をいれて水を運んできた。これは生活の知恵です。知識と知恵の違いは、知識は自分というものをはっきり持っていなくても頭に詰め込むことが出来るが、知恵は自分をはっきり持っているから、役に立つ。

 一般的に言って、日本人は自分というものを出さない、あることについてどう思うのと聞かれても、言わない。周りの意見に合わせてしまう。回りの顔色を伺うことが多い。

 さて、前置きが長くなりましたが、わたしは「クリスマスって何だ?」と聞かれたら、「神様の“お願いします”」だと思っています。神様が、丁重に、人間に、「これだけは分かってくださいよ、お願いしますよ」とご自分をはっきり出して、メッセージを送っておられるのです。

 今日皆さんが、聖誕劇をやりましたが、あれは神様が「これだけは、分かってくださいよ、お願いしますよ」ということを強力に言っているメッセージです。

 イエスは家畜小屋で産まれた、御金持ちの大邸宅ではない、王様の宮殿ではない、イエスの誕生を祝ったのは、時の権力にこびる御用学者ではなくて、人間の本当の幸せを求めていたよその国の数少ない学者・博士であった。イエスの誕生の知らせを聞いたのは、社会の底辺で働いていた”羊飼い”で、社会の上層部の人ではなかった、などなど。

 神様は「お願いします」をはっきりと持っておられる方なのです。

 幼稚園で宿屋さんのお役目をやったお嬢さんのその後を見ていると、ずーっと御もてなしの心をもっています。

 聖書の中で一番はっきりそのことを言っている聖書の箇所、フィリピ2章6−9節を今日は読んでいただきました。聖誕劇(ページェント)を言葉化したらこういう表現になります。

 お手持ちの讚美歌(21−280、54−121)を開いて下さい。それが、これだけは分かってくださいよ、と言っているメッセージです。

「馬槽のなかに/うぶごえあげ/木工(たくみ)の家に/ひととなりて/貧しきうれい/生くるなやみ/つぶさになめし/この人を見よ」 

 お祈りをします。