祈りのある朝《詩篇 3:1-8》(1980 礼拝説教要旨・週報)

1980.1.13、神戸教会
説教要旨は1月20日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 3:1-8、説教題「祈りのある朝」

”わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。”(詩篇 3:5、口語訳)


 心配ごとがあったり、悩みごとがあったりすると、ひとは夜眠れないものです。

 そうして誰しも人生の長い旅路では眠れない夜をもっています。

 人間が実存者として目覚め、孤独を知り、自己を形成していくのは、このような経験を通してでありますから、これも極めて人間らしいことです。

しかし、不眠が続き休息がとれぬとすれば、精神的に醒めていることも不可能であります。


 イエスが「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ 6:34、口語訳)と言われるとき、新しい明日へのつながりの間に、神に委ねた眠りと休息が感じられます。

 また、ゲッセマネで、目を覚ましていることの出来なかった三人の弟子たちに「眠っているのか」とだけ言わないで、「休んでいるのか」とつけ加えられていることには、目覚めること少ない弱い精神の持ち主への優しさが感じられます。


”三度目にきて言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。時がきた。見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。”(マルコによる福音書 14:42、口語訳)


 さて、詩篇3篇も眠りについて触れています。

「わたしはふして眠った」(5節)と堂々と語る作者が置かれた状況は、客観的に見れば、とても安んじて眠れるものではありませんでした。

 彼に敵する者は「彼には神の助けがない」(2節)と言って、彼自身の精神的・内面生活・良心に関わることで彼を攻撃します。


”主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。”(詩篇 3:1-3、口語訳)


 私たちはここで、どうして「種谷牧師の裁判」や「中谷康子さんの訴訟」が戦われねばならなかったのかを思います。

 詩人は「わたしは声をあげて主に呼ばわり」ます。


”わたしが声をあげて主に呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構える、ちよろずの民をもわたしは恐れない。”(詩篇 3:4-6、口語訳)


 長い信仰生活を経てきた人たちは、声をあげて呼ばわる祈りの経験というものを知っているはずです。

 そうしなければ、突破できない状況にあるからです。

 答えが得られます。

「われわれが故意に進んで道を踏み外すことさえなければ、容易に神に近づく道は開かれている」とカルヴァンは講解しています。

 詩人はこうやって得た神の守りの中で堂々と眠るのです。

 もし、眠りに対する神の恵みを得ていないならば、「また目をさます」(5節)は、出口のない日常性の繰り返しです。

 しかし、十分な眠りのあと迎えた彼の朝は、自分のためだけに祈る朝ではなくて、「あなたの民の上に」(8節)祝福を祈る、祈りのある朝です。


”主よ、お立ちください。わが神よ、わたしをお救いください。あなたはわたしのすべての敵のほおを打ち、悪しき者の歯を折られるのです。救は主のものです。どうかあなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。”(詩篇 3:7-8、口語訳)


 「あなたの民」。

 それは神の民、真理を曲げず苦難を負う群れのことです。

 そのために祈る朝は、また自らも、積極的に一歩を踏み出す朝ではないでしょうか。

(1980年1月13日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)



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