礼拝と奉仕《マタイ 26:6-13》(1980 新年聖日礼拝・礼拝説教要旨・週報)

1980.1.6、新年聖日礼拝、神戸教会
説教要旨は1月13日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

マタイによる福音書 26:6-13、説教題「礼拝と奉仕」

 礼拝と奉仕、信仰と生活、宗教と倫理というように、真理に関することと現実の行動との間には割り切れないことがたくさんあります。

 教会は昔からこの問題を苦悩しつつ負ってきました。

 1980年代に入っても、1970年代に日本キリスト教団が負った問題を引きずっていくでしょう。

 さらに1980年代は、世界的に限られた資源の中で、貧困や抑圧のうちにある人々の解放の問題を負っていかねばなりませんから、表面的な同情や理念だけの隣人愛や奉仕では通用しません。


 本日のテキストで、貧しい人への奉仕が大事だといったイエスの弟子たちが、イエスに叱責されていることから深く学ばねばならないと思います。


”さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。”(マタイによる福音書 26:6-13、口語訳)


 いと小さき者の一人への奉仕がどんなに大事か、ということはマタイ25章で言われています。

 と同時に、奉仕が建前になって活きず、自分本位が断ち切れていない時、それにとどめを刺して奉仕の主体が取り戻されていく所はどこなのかという事を「ナルドの香油」の物語は示しています。

 イエスの死への関わりとしての香油は「礼拝」に於ける、懺悔、審き、信仰告白、恵みへの応答、献身を象徴しています。

 礼拝と奉仕の緊張関係が感じられない生き方、つまり紐のようにずうっと続いて、審きと赦し、というような決断的な事柄の入り込まない連続的な生き方が、ここではたしなめられているのです。


 そうではなくて、鎖(くさり)が一コマ一コマの区切りを持っているように、奉仕から礼拝へ、礼拝から奉仕へと、繰り返される緊張関係をたどる生き方が、求められています。

「わたしはいつも一緒にいるわけではない」(11節)というイエスの言葉は、連続的な生き方になりがちな私たちへの諭しでありましょう。

 そして、イエスの死に香油をもって繋がるということは、礼拝(神を愛すること)と同時に奉仕(隣り人を愛すること)へと導かれるのではないでしょうか。


 詩人・片瀬博子さんが詠んでいる詩の一節です。

 ”ああ 主よ
 あなたとひとつになることは
 この全世界の哀しみを負うことなのです
 世界は哀しみに脈打っている
 大きな樹なのです
 わたしは今初めてその樹につらなり
 血を通わせているのを知りました
 それが生きているという事だったのです
 香油をそそがれた樹よ
 こうばしい枝よ
 わたしの葬りの用意を告げる死の樹よ……”


 80年代、礼拝と奉仕の狭間を生きる者でありたいと思います。



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