負の民族性《詩篇 137:1-9》(1980 礼拝説教要旨・週報)

1980.2.3、神戸教会
説教要旨は2月10日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 137:1-9、説教題「負の民族性」

”われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。”(詩篇 137:1、口語訳)


 旧約聖書・列王記下の24章によれば、バビロニアの王ネブカドネザルがユダ王国の首都エルサレムを陥落させた時、すべての市民、司(つかさ)、勇士、木工と鍛治をバビロンに捕らえ移したとある。

 望郷の詩人もユーフラテスの川辺で、シオン(エルサレム)を思い、琴を奏でて、祈りの歌をうたったに違いない。

 しかし、戦勝国の人たちの無意識で不用意な驕れる振る舞いは、捕らわれの民の心をどんなにか傷つけたであろうか。

「われらにシオンの歌を一つうたえ」(詩篇 137:3)という揶揄を含んだ言葉に、詩人は堅く口を閉ざし、琴を柳の枝にかけた。

 この拒否がどんなにか酷い結果を引き起こしたことか、想像にかたくない。

 そして7節から9節に述べられている、都を破壊し尽くしたバビロン人とすきに乗じて略奪と虐殺をほしいままにしたエドム人への憎しみの激情も故なしとは出来ない。

 そこに表された悲憤と激情には、捕らわれの身の固有な訴えがあり、バビロニアとエドムの民族としての固有な罪を浮き上がらせている。

 7-9節を、負い目としての民族的自覚を促すものとして捉える時、この詩篇の深い心が読み取れるのではないか。

”主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と言ったことを覚えてください。破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。あなたのみどりごを取って、岩になげうつ者はさいわいである。”(詩篇 137:7-9、口語訳)


 最近、在日大韓教会の総務に就任した金君植(キム・クンシク)牧師のインタヴュー記事を教団新報で読み、厳しい思いを抱いた。

 在日大韓教会と教団の関係についての文脈の中で同氏は、こう言っている。

”……教団が自らすすんで在日韓国人の教会の重荷を背負う覚悟があるのかどうかをまず問いたい。安易に「連帯しよう」と言われても、日本人を憎んでも憎みきれないというわれわれの感情を、教団の人たちがまず知って欲しい。……憎しみの実体を本当に知ろうとしないと、本当の愛も出てきません。”

 きつい言葉だ。

 しかし、日本民族が朝鮮民族に加えた差別、抑圧、弾圧、搾取、侮蔑、略奪といったものの深い傷はそうとしか表せないものを知らされる。

「元号法制化」「天皇靖国公式参拝」と正面きっての独善的な日本の民族性が主張される今日、負い目を担うような民族的自覚こそ、聖書に聴く者の道ではあるまいか。

 李仁夏(イ・インハ)牧師は、「民族の負い目を担う者となれ、それが自らの主体を構築する闘いだ」ということを在日朝鮮人自身について言っている。

 その深みには心を動かされる。

 いずれにしても、この古の詩は「負」としての民族性の自覚を促す。

(1980年2月3日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)

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