深き淵より《詩篇 130:1-8》(1980 礼拝説教要旨・週報)

1980.2.10、神戸教会
説教要旨は2月17日の週報に掲載
▶️ 深き淵の底から、主よ、あなたを呼びます(2005.2)

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 130:1-8、説教題「深き淵より」

”主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。”(詩篇130:1)


「深き淵より」という言葉は、同名の表題を持った小さな本のことを思い起こさせる。

 それは太平洋戦争中の信仰の挫折と、あるキリスト教主義女学校での出来事を、重ね合わせて綴られたものであった。

 もう(天皇の)「御真影」が取り去られてしまったコンクリートの建物に向かって習慣的に何ヶ月も最敬礼をし続けるミッションスクールの生徒の姿に、戦時中の自己を投影させてしまった著者・安藤肇氏(牧師、著書『深き淵より – あるキリスト者の戦争体験』日本YMCA同盟出版部 1963)は、この詩篇をもって、罪の懺悔を表している。


 旧約聖書では「深い淵」は、単に状況ではない。

 ヨナ書2章3節に「あなたは、わたしを淵の中、海のまん中に投げ入れた」とあるように、神への背信の自覚からくる距離感であり、神との関わりに置いて「呼ばわる」以外に表しようのない内なる場を示している。

 そこでは徹底して主体のあり方が問題になっている。


 私たちは(日本語の表現形式の特質かもしれないが)主体抜きで事柄を扱って平気でいる。

 過失でガラスを割った時、「あっガラスが割れた」と言う。汚職を起こした当人が、主語抜きで「はなはだ遺憾であります」と言う。

 しかし、イスラエルの詩人は、”わたし”と神である”あなた”との関係で、主体を捉える。

 その時、「もろもろの(厳密に、日常の、小さなものまでの)不義に目を留められるならば」(3節)、立つことを得ない自分を自覚する。


”主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことが出来ましょうか。”(詩篇 130:3、口語訳)


 ゆるされることだけが、待ち望まれる関係として主体が捉えられる。

”しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。”(詩篇 130:4-6、口語訳)


 そして、主体的であり得ることの極みが、「イスラエルよ、主によって望みを抱け、主には、慈しみがあり、また豊かな贖いがあるからです」(7節)と説かれている。

”イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます。”(詩篇 130:7-8、口語訳)


 この詩をもとにマルチン・ルターは讃美歌258番「貴きみかみよ」を作った。

 この讃美歌は、深い淵からの罪の自覚と懺悔、人のわざの無力、「ひたすら恵みの力をたのみて」という恵みへの確信、救いへと牧者の働きをもって導く現実感を持った信仰告白と、希望に向かい、上に向かっていく方向性が歌われている。


 私(たち)は、自分の信仰の実態にしても、日本の教会の実態にしても、「深き淵より呼ばわる」実感がしきりである。

 しかし、「深き淵より呼ばわる」生き方には、面(おもて)を上に向けた新しい踏み出しがありはしないか。

(1980年2月10日 神戸教会礼拝説教要旨 岩井健作)



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