神は我らの避け所《詩篇 46:1-11》(1980 礼拝説教要旨・週報)

1980.2.17、神戸教会
説教要旨は3月2日の週報に掲載

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

詩篇 46:1-11、説教題「神は我らの避け所」

”静まって、わたしこそ神であることを知れ。”(詩篇 46:10、口語訳)


 詩篇46篇ほどエピソードの多い詩篇はないでしょう。

『詩篇のこころ』という詩篇研究を一冊の本で発表された角田三郎牧師(横浜・上大岡教会牧師)は、やはり「かみはわがやぐら(讃美歌267番)」のルターの逸話や46篇がシェイクスピアの作という笑い話を語りながら、同時に角田氏自身が病気の一番苦しかった時、この詩篇の「静まって、わたしこそ神であることを知れ」という言葉に、ひたすら撃たれて、それからこの詩篇研究が始まったのだという感慨をつけ加えています(角田三郎『詩篇のこころ」ヨルダン社 1979)。

 それはまた新しいエピソードです。


 この詩篇は、イザヤ書の思想を背景としていると言われます。

 紀元前701年、アッシリア王セナケリブは怒涛の如くエルサレムを包囲しました。

 ユダの狼狽は目に余るものでした。

 その中で、預言者イザヤは「立ち返って、落ち着いたならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ 30:15)と「主の託宣」を語ります。


”主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。”(イザヤ書 30:15、口語訳)


 私たちの現実の生活も、攻めを受けると、心千々に砕けます。

 しかし「神は……さけどころ」と心を定め決断をするところにこそ信仰があります。


”神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。”(詩篇 46:1、口語訳)

”万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。”(詩篇 46:7、46:11、口語訳)


「一つの川がある」(4節)は、列王紀下19章、イザヤ書37章に照らして読むならば、預言者イザヤの声を象徴しているようです。

 沃土を運び、巨船を遡らせるユフラテの川に較べてシロアの水(イザヤ 8:6)は文明の豊かさをもたらしはしません。

 しかし、小さな泉の水の如き預言者の働きにこの民族の特質が表されています。

「神は朝はやく、これを助けられる」(5節)は、時間的早さをいうのではなく、人が何もしないうちに、人のわざを超えた神のわざを示しているのではないでしょうか。

「来たりて主のみわざを見よ」と。

”万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。”(詩篇 46:7-8、口語訳)


 そして10節には、この詩の中心的メッセージである「静まりて、わたしこそ神であることを知れ」とうたわれています。

 アッシリアの大軍の侵攻の前に「主のみわざ」がいかに見えなかったかを、逆に浮き彫りにしているのがこの一語です。

 先般、新聞の夕刊に、田中正造翁(足尾銅山の鉱毒事件と闘った明治の義人)の遺言が、67年ぶりに弟子・島田宗三氏の死により明らかにされたとあり、その中に「被害者の谷中の人たちすら事柄は分かっていない」との内容はショックでした。

 それと同じように「主のみわざ」の事柄の前に「静まれ」というみ言葉に、畏れを覚えます。

 が、また心を定める安らぎをも与えられます。

(1980年2月17日 神戸教会説教要旨 岩井健作)


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