僕(しもべ)聴く、主よ語り給え(2013 礼拝説教)

2013.8.18 明治学院教会(318)聖霊降臨節 ⑭

(単立明治学院教会牧師、健作さん80歳)

サムエル記上 3:1-14、ローマ 13:11-14

1.「8月は6日・9日・15日」

 と言って、原爆、太平洋戦争の犠牲者を追悼し、戦争の災禍を検証し、特に日本のアジアにおける侵略戦争の加害者責任の継承を、歴史認識として鮮明にする時である。

 詩編130編が「われ深き淵より汝を呼べり」と呻吟するように、戦争犠牲の代償である立憲主義憲法が蔑ろにされた、現在の泥沼の日本の精神・思想状況で、神の語りかけに耳を澄ます日でもある。

2.イスラエル民族は歴史の節目で「僕聴く、主よ語り給え」と耳を澄ませた。

 この聖書の言葉の状況に目を留めたい。当時イスラエルはペリシテという外敵に出会って、悩み、困惑した。結局、力には力を、と制度的には王国を作って対抗した。

 しかし、サムエル記を残した申命記史家は外敵の強力さに先立って、問題は内部にあるのだ、とその危機を指摘する。

 例えば、3・11(東日本大震災)以後の日本の危機は、この国の人々の価値観(政治・経済・文化のあり方・責任の取り方)だと指摘されるように。

3.

「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(サム上 3:1、新共同訳)

 神との関係の希薄さ、鈍さの指摘。

「ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんで来て、見えなくなっていた」(3:2)

 祭司エリの危機が描かれている。

「息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のためにエリの家をとこしえに裁く」(3:13)

4.

 その神の裁きを聴き、また語る役目が、神殿でエリの元で修行中の少年サムエルに課せられる。

 歴史の危機で、それを「聴く」役目が、少年とは。

 主の神殿で、明け方、サムエルは三度自分を呼ぶ声を聞く。

 三度目に「どうぞお話しください。僕は聴いています」と言ったという物語は有名な物語。

「しもべ」は礼拝の姿勢を含意する。神に聴くということは、自分中心・自分本位の思惟体系が「砕かれる」ということに他ならない。

 本当に「聴く」ということは、自分を無にし、自分が砕かれ、相対化されることだ。

「主よ、お話しください。」(3:9)とは神を主語とするという「宗教的転換」の経験である。

5.

 サムエルは「師」エリへの神の裁きを聴いた。

「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた」(3:15)とある。

 サムエルはエリの「お前に何が語られたのか。私に隠してはいけない。」(3:17)という促しに支えられて、神の言葉を語るという最初の使命を果たす。

 エリは晩年になって衰えたとはいえ、最後の使命として、神の裁きを受け止めるという、イスラエルの歴史にとって大変重要な、そして難しい役目を果たす。

 イスラエル宗教の歴史の系譜にある人は、常に「神の裁きを聴く」役目を担う。

6.「歴史を生きる者」は

 個人的にも、民族としても、神の裁きを聴く覚悟を怠ってはならない。

 それは、幼児サムエルへの追体験でもある。

 この夏、米映画監督オリバー・ストーンは、広島でドイツ国家の「第二次世界大戦」への反省・検証・謝罪と比較して、日本そして安倍首相の広島発言の欺瞞と「国民」への覚醒の促しを語った。

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