タラントンの譬 ー お金で語る逆説的いのち(2013 聖書の集い)

「新約聖書 イエスのたとえ話」(5)

2013.8.7、第63回「現代社会に生きる聖書の言葉」湘南とつかYMCA

(明治学院教会牧師 健作さん80歳)

マタイ 25:14-30

「タレント」と言えば、「①才能、技量。②(転じて)放送の常連出演者、芸達者でよくテレビに出演している人」(コンサイス外来語辞典)とあります。でも語源はギリシャ語で「秤(a balance)、貨幣の単位」を意味する言葉です。新約聖書では貨幣の単位として出てきます。『新共同訳』の付録には「通貨、ギリシャで用いられていた計算用の単位で、6000ドラクメに相当する」とあります。ドラクメを見ると「ギリシャの銀貨で、重さ4.3g、デナリオンと等価」とあります。そこで「デナリオン」を見ると、「1ドラクメと等価(一日の賃金に当たる)」となっています。そうすると、タラントンの譬えというのは「ある人が旅行にゆく時に僕に財産を預けた」ときのお話ですが、1タラントン預かった人も6000日の日当相当額を預かった事になります。いま植木屋さんの日当は安い方でも2万円ですから、6000日分で、1億2千万円という事になります。5タラントだと60億円です。ここから考えると随分大きな話です。イエスの周囲の貧しい農民への譬えとしてはどういう意味があるのでしょうか。ローマ帝国の領地支配の官僚の間ではこんな話が交わされたかも知れません。

 さて、イエスの譬え話では、主人が僕それぞれに”5、2、1タラント”を預けます。5タラントのものは他にもう5タラント儲けた、2タラントのものは他にもう2タラントを儲けます。しかし、1タラントを預けられたものは、主人の厳しい人であるを知っていて、元本までなくしたら大変と、地中に1タラントを埋めておいた、というのです。主人は帰ってきた、最後のものを「怠け者の悪い僕」と叱ります。

 私が小さい時には「教会学校(日曜学校)」教師は、「タラント」とは個人個人が神から預かっている、才能、能力、個性だと、教えてくれました。それぞれに違うのは当然として、それぞれが励む事が大事で、出来高の問題ではない。唯、それを生かさないのはいけない。神様からお叱りを受けるというものでした。「タラントン」を、精神化して、個性、賜物の違いとして話がされました。だから、人と比べないことが大事だ、比べると競争になる、力の強い、能力があるものが偉い事になるが、そうではない、違いがあってよい、自分に忠実である事が大事なのだ、というように譬えを教えてくれました。いまでもそのように解釈されていると思います。

 聖書学者ハンターはこれは「個人の賜物の正しい使用についての一般的教訓を述べているのではない」といっています。「キリスト再臨前の期間の教会のための譬え」だ、終末は近い、律法(神の賜物)を死蔵し、独占したパリサイ人のようになってはいけない、それでは「神の資本」に利益をもたらさない、との警告だと言っています。荒井献氏も「再臨の審きへの備え」と指摘しています。

 田川建三氏は、譬えの額の大きさから考え、イエスが「当時の資本主義の精神(金が金を生む)の事実を露骨に指摘」して、「権力者や大金持ちの実態を示し」「実態に眼をむいた人々の正直な感性」を示している、といいます。そして現代ケニアの作家グギ・ワ・ギオンゴの小説がこの譬えを逆説的に引用している事を上げています。これは、ほとんど近代化されたキリスト教の解釈の及ばない所ですが、「いのち」をないがしろにする圧倒的な世界では、それに立ち向かう主体を喚起するお話とも言えます。

 東京新聞が「新たな大量の汚染水確認、福島第一最大の9億5000万ベクレル」(8/1)と事実だけを伝える手法をとっているのに似ています。「いのち」がこんな現実に押しつぶされていいのか。

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