キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている(2011 聖書の集い・パウロ ④)

2011.9.7「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第20回「新約聖書 パウロの言葉から」④
フィリピの信徒への手紙 1:27-30

(明治学院教会牧師、健作さん78歳)

1.「キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」というのが、今日選んだ言葉である。

 宗教は救済を信じるものと相場が決まっている。だが、そのように「独りで信じて、救済の観念領域にしがみつけば、それで救いが全うされるというのは、ちょっと違うのだ」ということがここでは述べられている。

 ふと、芥川竜之介の短編『蜘蛛の糸』を思い出した。主人公カンダタは、お釈迦さまが垂れてくださった蜘蛛の糸を極楽に向かって登る途中、下から数限り無い罪人たちが後をついて登ってくるのに気が付き「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ」と喚いた途端、カンダタの手のもとで糸は切れた、というお話です。

 俺だけは救われるのだという思いが、地獄の者どもを見限ったとき、己(おのれ)の救いも無くなった、というお話です。

 もし、自分は「蜘蛛の糸」の救いを失うかもしれないが、みんなの救いが実現するためには、糸は切れるかもしれないがそれでよいのだという逆説によって、本当の救いは成り立つのだという暗示がこの作品にはあります。

 救済を信じるという自分の信念だけではほんとうの救いは成り立たない。自分の「救済」をも犠牲にしたとき初めてみんなの救いが成り立つのだという逆説があります。「苦しむことの恵み」とは、苦しんでこそ恵みに与かれるという逆説です。

 パウロの言葉にはこのような逆説がたくさん含まれています。

 なぜそうなのか、テキストの文脈を確かめておきます。

2.テキストの文脈

 フィリピの信徒への手紙は、パウロが獄中からフィリピの街の教会に送った手紙である。フィリピの教会は、パウロが第2回の伝道旅行で、アジアからヨーロッパに渡った際に成立した最初の教会である(使徒言行録16:12以下)。

 今は、どのような理由で一つの書簡になっているのか分からないが、これは3回にわたって送られた手紙が一つにまとめられて現在の形になっていると研究者は言う。

 ① 4:10-23:フィリピから送られた献金への感謝。

 ② 1:13-3:1a 及び 4:4-7:パウロのもとに手助けのため送られてきたエパフロデトが病気になったので送り返すにあたっての手紙。

 ③ 3:1b-4:3 及び 4:8-9:ヘレニズム密儀教的傾向を持つキリスト教指導者に対して「十字架の福音」に敵対する者として警告している部分。

 投獄の報告を記しているのは、二番目の部分1章12−26節であるが、今日引用した27節−30節の前のところである。

 パウロは生涯に3回伝道旅行をしているが、エペソに滞在している時に投獄された。投獄は生死の運命を左右する様なものであったが、かえって「福音が前進する」と説いて宣教の機会になったとの有名な言葉を残している。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、福音の前進に役立ったと知ってほしい。(1:12)」。その上で、フィリピの教会の人達を励ましている箇所が今日の箇所である。

3.「苦しむこと」を通してつながってゆくつながり方に中に「キリスト(神)」が顕になることを証ししている働きがあります。

 最近、ホームレスの支援を22年行っている北九州の奥田知志牧師の話を聞いた。

 ホームレスの人につながるにはこちらも傷つく。その傷つく苦しみによって、本当の心のつながりが生まれるのだという。

 拒否されても拒否されても、関わってゆくホームレス支援が、ただ「絆」を強調する様なつながり方では、強い者が弱い者を支配してしまって本当のつながり方とはいえない。タイガーマスクが匿名でランドセルを配るのは「傷つかないで」相手に関わりたいという、独りよがりがあるのではないか。ほんとうに関わるなら「僕ランドセルはいらないよ。それより僕の悩みをほんとうに聞いてほしい」という出会い方を避けては通れない。ランドセルだけ置いてくるのは格好がよいが、ほんとうの関わりではない。

 同様に、苦しんでこそ関わりが出来るところに恵みは働く。

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(2011 聖書の集い・パウロ ⑤)

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