2009.9.20、明治学院教会(167)
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)
イザヤ 6:5-7、ローマ 6:1-11
1.O夫人の受洗の時の言葉はいつまでも心に残っている。
「私、宗教なんかに縁のない人間だと今まで思っていたのです。でも、不思議ですね」
御子息が知的障害を負っていた。
身辺自立と軽作業ができるまでに、どれだけの苦労があったであろう。
夫人は「もし自分が先立つようなことがあったら…」と思うと、その子が不憫で堪らないと言い続けてきた。
ふとした動機で教会に通い、その重さから「自由への旅立ち」を経験した。
聖書を通じての「イエスとの出会い」がそれをもたらしたという。
日常の重さは変わらないのに、笑顔が明るかった。
2.パウロはバプテスマ(洗礼)について、「キリストの死にあずかるバプテスマ」(ローマ 6:3)といい、「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのであり」(6:4)と続ける。
「死にあずかる」とは、自分本位・自己充足・自己実現・自己完結などといった「おのれ」に「死ぬ」ことを意味している。
しかし、人間はそうたやすく実存的な意味での「おのれの死」を経験できない。
その自分が「キリストの死」に結び合わされて、初めて「その死」と繋がることができる恵みがそこに記されている。
O夫人の、自分がなんとかしなければならないという「自己完結」は「己の保持」であった。「その自分」に死ぬことはできなかった、という。
御子息のK君の不憫さは、同時に親の責任となり重くのしかかった。自由がなかった。けれども、K君は、彼は彼で、ヨハネ福音書9章が語っているように「神の栄光」を表すために存在しているのだ、このことに気がつかされたとき、ふと肩から力が抜けたという。
十字架上の何もできないで死んだ、無力なイエスの存在が、「無力で良いのだ」と促している。
”もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。”(ローマの信徒への手紙 6:5、新共同訳)
ローマの信徒への手紙 6:5「彼の死に結び付いて死の様に等しくなるなら、さらに彼の復活の様に等しくなるであろう」との言葉が力を持ったという。
K君に対して、何もできない自分で良いのだ。それは現実の受容であった。
3.儀礼や、教義や、制度としての宗教を否定する宗教思想史家・笠原芳光さんも、宗教は人間の最終的問題だという。
それは常に「己の死」を問題にして、そこから生きることが問題だからである。
洗礼が死ぬことに関係があるのは、古典的な恵みの徴であり、その形態であろう。ある意味では「肉体の死」までを相対化する「死」が、パウロのいう「キリストの死にあずかる」ことである。
「主にありてぞ 死を迎えん
主にある死こそは いのちなれば。
生くるも良し 死もまた良し
主にある恵みに 変わりはなし」
(讃美歌21 518、2節3節)
これは、パウロの「フィリピの信徒への手紙」1章21節の気持ちをうたった歌である。
一方で「ひたすら走る」(フィリピ 3:14)ことを強調するパウロの、もう一方の佇まいであり、ポートレート(肖像画)であろう。
決して「悟り」ではない。走る姿は今日も、明日も、変わらない。
4.今日のKさんの洗礼式をみんなで祝福したい。
(サイト記:最後のKさんは前半部のK君とは別人です。明治学院教会で洗礼を受けたためプリントにはお名前が記載されていますが、PDF、本文ともお名前は伏せました)
167-20090920◀️ 2009年 礼拝説教