復活(2009 小磯良平 ㉙)

2009.9.16、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」㉙

マタイ 28:1-10、マルコ 6:1-8、ルカ 24:1-12、ヨハネ 20:1-10

(明治学院教会牧師、健作さん76歳、『聖書の風景 − 小磯良平の聖書挿絵』出版10年前)

1.小磯さんの復活の絵には想い出がある。

 私が神戸教会に赴任したのは1978年春であった。当時の「神戸教會々報」を見ると、表紙には時々教会員の小磯さんのデッサンが載っていた(例えば「ともしび」)。

 前任者の児玉浩次郎牧師に尋ねると、頼めば気軽に描いてくださる、との話であった。

 1979年、私にとっては神戸で最初の復活節が近づいた。

 復活節に向かって会報の編集がされていた。会報部からは、第一面に「復活」についてのメッセージを書いて欲しいとの依頼があった。そうして、小磯さんにデッサンを頼んで欲しいという。

 小磯さんに絵を依頼するのは初めてであったが、割と気軽に電話した。

 挿絵を描いて欲しいまでは良かったが、復活の場面を描いて欲しいとお願いした。

  返事が渋かった。

「画家はテーマを決められますとねー」

 一瞬しまったと思った。

「イーエ、どんなテーマでも結構です」と言葉を重ねた。

 二、三日して、小磯さんから電話があった。

 このあいだの絵が出来ましたから、取りに来てください、とのことだった。

 お訪ねすると、渡された絵は「復活」の場面だった。

 聖書挿絵で「復活」の場面は何度も見ているのだが、見た瞬間、あれよりずーっと良い、というのが直感だった。

 構図はほぼ同じなのだが、中央の若者は天使として描かれている。翼がついている。

 左の二人のふじんは、聖書の挿絵と比べて、天使に向かって惹きつけられるような位置にあり、顔の表情の驚きがはっきりしている。右の一人は、挿絵では屈み込んで下を向き、悲しみを表しているが、新しい絵では膝を突いて、体はまっすぐ天使と向き合い、天使の手が示す方向を見ている。

 天使は両手を開いて「ここにはおられない」と言っているようである。柔らかい鉛筆画に水彩でくすんだ黄色の淡彩が施されていた。

 遠景はなく、後ろの墓は鉛筆の軽い斜線で墓穴の暗示にとどめてある。

 この絵は、今でも神戸教会の母子室に掲額してある。

 写実の画家は聖書本文の記事を忠実に読んだに違いない。

 聖書挿絵ではマルコに従い「白い長い衣を着た若者」を描いた。

 神戸教会の絵はマタイに従ったようだ。

「主の天使が……石をわきへ転がし、その上に座った……天使は婦人たちに言った…」

 ルカでは「輝く衣を着た若者」になっているので、小磯さんの絵とは違う。

 婦人は、マタイでは二人、マルコでは三人であるから、神戸の絵はマタイ・マルコの折衷であろう。

 福音書では、ルカとヨハネは「復活のイエスの顕現」そうして「弟子たちの派遣物語」が続く。

 マルコは16章8節で「婦人たちは墓を出て逃げ去った。…恐ろしかったからである」とぶっきらぼうな言葉で終わっている。写本が切れて結末が失われたとか、いろいろな憶測がある。収まりが悪いので、新共同訳聖書のように「結び一」「結び二」が後世付加されたが、これはマルコ本来のものではないというのが近年聖書学の定説である。

 マルコの神学では「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる……そこでお会い出来るであろう(16:7)」が、マルコ復活理解であるとされる。

 マルコは読者が再度イエスのガリラヤの日常活動に出会うことが「復活への信仰」だと促している。

 復活が事実であるという場合、もちろん科学的認識でいう事実ではない。それは「信仰的事実・神の出来事・神の現実」だとされる。

 私が影響を受けた考え方を記せば、人間学的な解釈を入れて「非神話化(実存論的解釈)」をする20世紀最大の新約聖書学者ルドルフ・ブルトマンの考えなどがある。彼は「十字架の有意義性」だという。殺されたあの十字架が意味を持ったという「神の出来事」の逆説を説く。

 また日本の作家・椎名麟三は「生と死の二重性」だと理解する。

 ルカ福音書の復活のイエスは弟子たちの前で魚を食べる。

 イエスが殺された現実も本当であるし、しかし、魚を食べて「生きていてよい」ということも現実であり、この不可思議な、ユーモラスな日常性の肯定に椎名はイエスの復活を見る。

 復活はその「イエスとの邂逅(出会い)」の真理だと。

  宗教的概念として「復活は復活だ」と思い込む「根本主義者・原理主義者(ファンダメンタリスト)」はいつの時代にも存在する。宗教を観念形態の極致へと誘導するのがファンダメンタリズムである。

 しかし、復活の最初の目撃証人は復活を観念化して述べなかった。

 マルコは日常性の断絶(十字架の死)と日常性の肯定ないし、再発見(復活)を語る。

 それが、イエスの日常を文学的に語ることになった。

 イエスの歴史の中の歩みを語ることで、その真理性である「福音」を述べ伝えようとした「福音書文学」というジャンルを生み出した。

 小磯さんはその文学の挿絵を文学的表現に従って挿絵にした。それが「復活」の場面である。信仰的出来事としての「復活」を、自らの信仰的証として、芸術表現での「復活」を絵画化する画家はいるであろう。しかし、絵そのものにメッセージを盛り込まないのが「挿絵画家」であってみれば、小磯さんは挿絵に徹している。

 シリーズ「キリスト教名画の楽しみ方」という本が出ている。『復活』(高久眞一、日本基督教団出版局)。

 不覚にして手元にない。小磯さんの絵も入っているだろうか。

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ガリラヤのイエス(1979 神戸教會々報 ③)

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