教会のために祈る(2009 礼拝説教・コロサイ・修養会)

2009.9.13、明治学院教会(166)修養会二日目、聖霊降臨 ⑯

(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)

イザヤ 43:1-7、コロサイ 1:9-14

1.昨日から「教会ということ」をテーマにして修養会を行ってきました。

 今朝、読んだコロサイの手紙によれば、教会とは「ますます神を深く知る」ところだといわれています。

 このことに関連して思い出すことがあります。開拓伝道をされてきた教会の「20年記念誌」です。

「私どもの弱さにもかかわらず、主から託された使命の一端を担って今日まで歩むことができたのは、主のみ言葉の力であり、また多くの教会の方々の支援に依るものです。」

 二つのことがここには含まれています。

(1)「主のみ言葉」という「福音」の出来事そのものの力という面と、
(2)「多くの教会の方々」という「主のみ言葉」に応答する人々の働きです。

 一方を”神の働き”といえば、もう一方は、”人々の応答”といえます。

 教会の誕生、成長というのは、この二つが相俟ってなされるものだということをよく示しています。

2.コロサイの信徒への手紙でも、6節は「あなたがたにまで伝えられた福音は」と「福音」が主語になっています。

 福音は、それ自体が主語なのです。

 これは教会が絶えず立ち返ってくる拠り所です。

 6節の後半では「神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」という面は、教会の応答にかかわる働きだといえます。

3.「聞いて真に”悟った”」という”悟る”という言葉は「エピギノスゴー」(動詞形)という言葉です。「認識」とも訳されますが、行動を含んだ理解です。

 例えば、生活習慣病を認識するということは、生活習慣を変えるという行動を含んでいます。

 神戸にいた時、阪神大地震から6年くらい経った時です。「阪神・淡路大震災復興検証シンポジウム」という集いがありまして、住宅問題がテーマでした。

 ここで一番の中心問題は、自分たちの街づくりを、行政のせいだけにせず、住民や市民がどのように自分たちのことにしてゆくか、ということでした。

 専門家に混じって私がパネラーの一人として真剣に考える機会がありました。パネラーの一人・熊野弁護士が、生活習慣病について、日野原重明さんの『生活習慣病』という本を取り上げ、街づくりの例に引いていたのが印象的でした。

4.今日の聖書テキストは、手紙の著者による「コロサイの教会」への「祈り」です。

 9節には「絶えずあなたがたのために祈り、願っています」とあります。これは著者の「執り成し」の祈りです。

 言うてみれば、コロサイの教会の体質改善のための祈りです。

「知っていること」と「実行すべきこと」とが、一つになって「認識」ができるように、という祈りです。

 実行を含んだ認識というものは、周りから、ちょっと励ましが有ると無いとは大違いです。

「ますます神を深く知る」営みがどのように展開していったんでしょうか。

 以下、「エピギノスコー”悟る”」にしたがって学びを深めます。

(後略)

(サイト記:「聴き手のために」のプリント原稿はここで終わっています)

165-20090913

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