九十九匹は荒野に − 共存の文化体験(1992 神戸教會々報 ㊺)

神戸教會々報 No.133 所収、1992.2.16
▶️ 2月2日 説教「荒野で考える」

(神戸教会牧師 健作さん58歳)

 ”あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。” (ルカ 15:4、口語訳)


 木枯しにプラタナスの実が揺れる街角の、しゃれた電話ボックスで、外国人が通話をしている。一見して労働者だ。門戸のきびしい入国管理をくぐって、どのようなビザなのだろうか。アジアはどこの国からなのか。この人も3K(きつい、きたない、きけん)と言われる仕事についているのだろうか。こんな日常に接しつつ、一抹の憂いとともに新年を迎えた。

 新聞の論調も、貿易摩擦や南北問題は日本の課題だという趣旨の記事が多い。

 評論家・松本健一氏が「閉じようとする日本社会ー自分たちだけ『豊かに』、強まる民族の”ホンネ”」との見出しで、政府はもとより「ニホン人」の国益意識をするどく批判している。「国際貢献」を口にしつつ、実は「我が国」の国益を内々に囲う、黒を白という論理の不毛性を指摘する。

 同じ新聞(1991.1.8 朝日夕刊)で作家・津島佑子氏が、パリでの生活を「異質のぶつかる響き体験」と表現していることと対称的であった。


 一つの論理を内を囲うものと変質させ、あるいは作用させるのではなくて、異質なる外との出会いを切り開いていくものへ転換させていくことがいかに難しく、その逆が容易であるかを知らされる聖書テキストがある。

 福音書の「迷い出た羊」のたとえ(マタイ18:10-14、ルカ15:3-7)では、原型に近いルカの「九十九匹を野原に残しておいて」が、マタイでは「山に残しておいて」となっている。

 聖書学者・荒井献氏は、「山」は「聖域」を意味するという。

 ルカの「野原」は荒野であり危険にさらす意味がある。

 原型は、ユダヤ宗教共同体の中で疎外され、いなくなった一人の「地の民」(被差別者)をたずねたイエスの姿を示すものであって、共同体に囲いこまれることで安全を保証される人々への批判的行為を語っているものであるという。

 ところが、今私たちの手にしているテキストは、マタイでは、当時の教会の中での「小さいもののひとりの滅び」をとりもどす説教に、ルカでは「罪人のひとりの悔い改めを喜ぶこと」へと変質してしまっているという。

 このような聖書の読み方は当を得ていると思われる。元来は逆説的批判をもっていた物語が、迷い出たものを囲う「教団」の論理に構成し直されているところを、今日我々は自らのあり方への批判として受け取らねばならない。

 神はイエスを通してそのように語られている、と信じる。



 石川信義著『心病める人たち ー 開かれた精神医療へ』(岩波新書 1990)を読んだ。

 精神病者を囲って治安の対象としか考えないこの国で、いち早く完全開放病棟を群馬県太田市の三枚橋病院に実現している病院長である著者は、「精神医療のあり方が良くならなければ、私たちの国は、世界に向かって胸を張れない」と怒りと情熱をこめて語っている。

 欧米では精神病院は縮小・廃止、そして「地域化」に向かっている。イタリアの医師フランコ・バザーリヤらの改革の歴史がある。「看守になるか?改革者になるか?」(p.135)とこの人は行動する。そして患者たちを病院から町へと送り出す。やがて町の人は患者たちを自分たちと同じ市民と考えるようになったとある。

 石川氏の試みは、今、日本の文化という壁にぶつかっているという。

 拒否の文化から、共存の文化へとまだ長い闘いが続く。

 共存の文化は、ルカが伝える「野原(荒野・原野)に放置」される体験と表裏のものであろう。

 恐れてはならない。

 イエスと共なることへの喜びの招きであるから。


神戸教會々報

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