荒野で考える《ルカ 15:1-7》(1992 週報・本日説教のために)

1992.2.2、神戸教会
降誕節第6主日
▶️ 教会報「九十九匹は荒野に − 共存の文化体験」

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、ルカ 15:1-7、「荒野で考える」岩井健作


「聖書をどう読むか?」という問題は、キリスト者がどう生きるかということと密接に繋がっています。

 聖書の読み方は、人間の身体でいえば、栄養の摂取の仕方のようなもので、人の体質を左右するように、信仰者の生き方の質を形作ります。

 聖書を読むことと真剣に取り組まないで、例えば、口当たりのいいお菓子を食べるように、聖書から派生した読み物を読んだとしても、それは信仰の骨格づくりにはならないでありましょう。

 しかし、聖書は解釈の自由に委ねられた書物で、実に多様な解釈を生み出して来ました。

 そこで、解釈の基準を「公教要理」で方向付けているのがカトリック教会ですし、プロテスタント教会も「信条、信仰告白」の基準から解釈してまいりました。

 それは、同時に、聖書を教会の共同性の中で(正典として)読むことを意味しています。

 しかし、その場合でも、歴史的文書という聖書の性格を出来る限り受け入れて、緩やかな枠組みで読む場合と、教会的神学を解釈の基準として強く打ち出してゆく場合とがあります。

 現在、日本基督教団の多くの教会は前者の立場をとっているのではないでしょうか。


 さて、ルカ福音書15章4〜7節を読む場合、皆さんはどう読むでしょうか?

 ”「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改められるなら、悔い改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。”(ルカ 15:4-7、口語訳)


 教会の中のグループで各人の「聖書の読みのつき合わせ」をやってみると、きっと大きな学びになります。

 例えば、7節の「罪人の悔い改めは喜びである」ところにメッセージのポイントを置く場合があるでしょう。

 歴史的に言えば、ルカ福音書の著者の神学もそこにあります。

 現代の教会も、一人の人の神の前での「悔い改め」は大きな喜びです。

 マタイは、同じ譬えを用いて「小さい者の一人でも失せるならば、それはてんにいます父の御心ではない」(マタイ 8:14)と結論づけました。

 ”これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。”(マタイ 18:14、口語訳)


 それに伴って、99匹を「山に残して」(聖域に囲っておいて)と記していますが、、ここはルカの99匹を「野原(荒野)に放置して」の方が、最古の伝承に近いとされています。(『イエス・キリスト』荒井献、講談社)

 最古の伝承(4節)に即して読むと、1匹が迷った場合、99匹もその同じ荒野で危険に晒されつつ、課題を負うのだ、というメッセージが浮かび上がります。

 ユダヤの宗教共同体の安全地帯から疎外された「地の民」と共に生きたイエスの生き方を反映したお話となります。

 聖書をその最古層の歴史的文脈に戻して読む時、私たちの通俗的な解釈が破られることがあります。

 しかし、そこが大事です。

(1992年2月2日 説教要旨 岩井健作)


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