1992.2.9、神戸教会
降誕節第7主日
▶️ 前半:神の遠さと近さ《ルカ 6:20-23》
(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)
この日の説教、ルカ 6:20-26、「逆転の祝福」岩井健作
1991年10月20日の週報(神の遠さと近さ)でこの聖書テキストを学んだ。
要約すると、並行記事のマタイ5章1節は「こころの貧しい人たちはさいわいだ」とあるのに対して、ルカはただ「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ」とある点を対比して考えてみると、
① ルカの方が古い伝承を伝えている。
② マタイは精神化の方向にこの言葉を広げた。
③ 私たちは、原型に近い方に、イエスの振る舞いからの言葉を聴く。
④ 現代世界の貧富の差の現実の中で、貧しさの問題からの問いかけを
自分の生活領域で聴きつつ生きることを失ってはならない。
というものであった。
今日は、マタイの並行記事(5章1節〜13節:山上の説教)にはない、ルカだけの箇所から学びたい。
4つの災いは、4つの幸いに対応している。
4つの幸いが、神の国に入るのに必要な資格を示しているのに対し、4つの不幸は、神の国からの追放の理由を示している。
こういった警告は旧約聖書にあるものと似ている。
(アモス書 5:18、アモス書 6:1、イザヤ書 1:4、イザヤ書 5:8-24、イザヤ書 10:1-2)
”ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。”(イザヤ書 1:4、口語訳)
また新約聖書にも見られる。
(ルカ 10:13-15、マタイ 11:21-24、マタイ 23:23)
”偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしてはならない。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。”(マタイ 23:23、口語訳)
ルカの教会には、富める人がいた。
この人たちの価値観には、その時代と社会の富める人の「ものの考え方」が染み込んでいて、そこからなかなか自由ではなかったであろう。
ルカは、それだけに金持ちに対する警告が多い。
(ルカ 12:13-21 ”金持ちの畑”、ルカ 16:13 ”神と富”、ルカ 16:19-31 ”金持ちとラザロ”)
”どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない”(ルカ 16:13、口語訳)
24節。
”しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。
慰めを受けてしまっているからである。”(ルカ 6:24、口語訳)
物的な富の欲望には際限がない。
英語の “Wants” 欲しいモノは、 “Want” 欠乏につながる。
《慰めを受けてしまっている》痛烈な批判がある。
神との関わりにおける人間性の豊かさへと開かれている道が危機に瀕している。
25節。
”あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。
飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。
悲しみ泣くようになるからである。”
(ルカ 6:25、口語訳)
「満腹」:心の糧、関係(霊)における豊かさの閉ざされた状態。
「泣く」:イザヤ書 65:14参照。
”見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、
しかしあなたがたは心の苦しみによって叫び、
たましいの悩みによって泣き叫ぶ。”
(イザヤ書 65:14、口語訳)
ここまでは、未来形「…である」と語られている。
終末時の審判をもって威嚇する預言者のイメージで語られている。
ルカが「さいわい」と「わざわい」と二面の語り方をしている、その双方が我々の実存への語りかけではないだろうか?
叱責の面で、慰めの面で、両面の招きを聴くことで、神の真実に触れたい。
(1992年2月9日 本日説教のために 岩井健作)