神の遠さと近さ《ルカ 6:20-23》(1991 週報・本日の説教のために)

1991.10.20、神戸教会
聖霊降臨節第23主日
▶️ 続き 逆転の祝福《ルカ 6:20-26》

(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)

この日の説教、ルカ 6:20-23、「神の遠さと近さ」岩井健作


 今日のテキストは「貧しさ」の問題である。

 まず、並行テキストのマタイ5章1節〜13節との比較をしてみる。

 ”あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
 神の国はあなたがたのものである。”
 (ルカ 6:20、口語訳)

 ”こころの貧しい人たちは、さいわいである。
 天国は彼らのものである。”
 (マタイ 5:3、口語訳)

 マタイには、何故「こころの」(原意”霊において”)が付加されているのであろうか?

 どうしてそうなったのか?


 現在、西欧や日本では、想像を越える経済的貧しさの中にあるのが、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの現状であると言われる。

 貧しさと豊かさの問題を問えば、富める国の中にも所得格差や文化的・精神的「貧困」の問題はあるし、南北の貧富の格差にはいろいろな要因はある。

 しかし、富める側による構造的収奪が貧しさを作り出していることは否めない。

 そして、富める側にいる者には、貧困の問題を我がこととして考えることを、できれば避けたいとの心情が働くし、また、この問題を精神化・内面化して考えようとする。

「貧しさ」の問題というと、日本の教会でも、それは社会問題であって、教会の第一義的な問題ではないとする傾向は相変わらず強い。

 教会は、人間の根源的な罪とその救いのことが第一義的であるという。

 確かに、それに違いないのだが、そもそも第一義という考えが問題なのではないか?


 カトリック教会は、第二バチカン公会議(1962-1965年)以後、この罪の問題を構造的な罪、社会的不公正の問題を含めて考えるように変わってきている。

 更に、ラテンアメリカのメデジン(1968年)とプエブラ(1976年)での会議を通して「私たちの世界観が貧しい人々によって決定される時に初めて、私たちはキリストを見ることが出来る」と言っている。


 ルカとマタイの差については、ルカの方がイエスの言葉伝承の原型に近いものを示しているという(荒井献氏)。

 イエスの言葉は”逆説的”で、貧しさに喘ぐ者を除いて誰が祝福されてよいものか、という意味だという(田川建三氏)。

 貧しさの問題は、私たちの生き方への絶えざる問いかけである。

 マタイが精神化した方向にではなく、ルカの凄みを聴き取りたい。

(1991年10月20日 本日の説教のために 岩井健作)


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