1991年10月13日、神戸教会週報、聖霊降臨節第22主日、
伝道献身者奨励日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)
「ぶどう園の労働者」の話である。
朝早く雇われて丸一日働いた労働者も、夕方まで仕事にあぶれて立ち尽くしていた者も、同等に一日分の賃金をもらうのはいいことだ。いや、そうするのが正しいのだ。…それ以外の結論を引き出すことができるであろうか。田川建三氏はこう言う。(田川建三『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』p.206、三一書房 1980)
田川氏の所説で聴くべき点は、イエスが宗教的領域だけを語ったのではなく、日常生活の中で強い者が弱い者を食い物にしていく生活状況に根本的に切り込む感性を持っていたこと、また、この話はこの世の主従関係を神に投影するので、一方でこの世の階級関係の現状を肯定することになりはしないか、しかし、神の前での平等を極限に押し進める時、極めてラディカルな思想ともなるという、いわば話がどっちへ転ぶかという分水嶺を持った話である、という点にある。
W.ショットロフ(ドイツの女性新約聖書学者)は、まず社会史的に、日雇労働者の時間制賃金契約は存在していなかったことを検証する。(ショットロフ『いと小さき者の神 新約篇 社会史的聖書解釈』新教出版社 1981)
この「ぶどう園の労働者」という物語は、初めから《神の主権の譬え》であるとする。
労働の世界から題材が取られているゆえに、人間の生の現実に鋭い光を投げかけているという。
労働者たちは、密接な生の共同体の中に生きているのに、連帯性を欠いている。
この物語の解釈史には二つの要点があるという。
一つは《神の慈しみ》、一つは《人間の連帯》。
マタイのこの物語の引用は、16節「後なるものは先に」の文脈にあり、マタイ教会における「いと小さき者」への愛の欠如を警告する神学の流れの中にあるという。
ショットロフは「最古のイエス伝承でのこの物語の意味」では、イエスの最初期の信奉者は貧民であるから、罪人も義人も等しくイエスに招かれている(マルコ 2:17)、だとすれば、パリサイ人たちも律法(トーラー)を罪人との差別の方向に解すべきではなく、イスラエルの民の《生の共同体》として解すべきだ、みな神の前に立つというビジョンを通し、パリサイ人も招く物語だ、決して攻撃ではない、という。
この物語は、人間の社会差別の現実を文脈に引き込んでいる。
その中での人間の在り方に、批判と肯定、攻撃と招きの両面から近づく。
この物語の中のどの登場人物に自分を同定するかは、歴史の只中に生きて刻々と変わる自分にも難しいであろう。
イエスはどう生き、そして死んだか、また、そのイエスが今も自分に語っているのかという点を外さないで読み取りたい。
(1991年10月13日 神戸教会週報 岩井健作)