1991年10月6日、神戸教会週報、聖霊降臨節第21主日、
世界聖餐日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)
ヨハネ6章は、ガリラヤ湖の畔でイエスが群衆にパンを与えた物語から始まる。
6章全体は「生命のパン」という主題をめぐって展開される。
群衆はパンを政治的解放や経済的充足に求め「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」(ヨハネ 6:34)と言う。
イエスは「わたしが命のパンである」(6:35)と答えて、十字架の死を通して成就される道を示す。
それは、パンが「感謝して、分け与えられた」(6:11)こと、「人の子(イエス)の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(6:53)と、徹底して、イエスの十字架の死に極まる生への追従を通して与えられる「パン」だと示唆される。
”そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。”(ヨハネによる福音書 6:11、口語訳)
「パン」の問題が、人の生き方を二つに分けていくところに、ヨハネ6章の特質がある。
元来6章は、ヨハネ共同体(教会)の中で行われた小説教だと言われる。
「パン」、弟子の離反、ユダの裏切り(6:60-71)の3つのモチーフは、マルコ 14:17-25にあるように《最後の晩餐》を中心にして現れる。
「肉を食べ、血を飲む」という即物的表現は、ヨハネより後の事後的付加(6:51-58)とみなす研究者が多い。
ヨハネの文脈では、5章と6章は錯簡(書物の綴じ順の誤り)であり、逆にするとつながりが自然であるという指摘もある。
さて、6章の流れである。
①ユダヤ人が「肉を食べ、血を飲む」(レビ記 7:10以下)ことに嫌悪と反撥を引き起こす。
②「弟子たちの多くの者は」「ひどい言葉」と言ってつまずく。
③「多くの弟子たちは去っていった」。
④イエスの説教の舞台は都市「カペナウム」(時代の支配的価値観は都市で濃厚に反映される)。
⑤そのような渦の中で「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」「わたしが話した言葉は霊であり、また命である」と宣べた。
以下は、韓国の李文永氏(元高麗大学行政学教授、韓国ホーリネス教会長老)の説教の一節である。
”イエスを信じる人は、この世の中で自己の利益を追求しながら適当に生きて行く人間ではありえない。……一体、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとはどういうことであろうか。それは、正しい人であり、われわれの救い主であるイエスが、十字架上ではずかしめられてなくなったことを、悲しく、うらめしく思いながら、心に秘め、イエスを慕いながら一日一日を生きて行くことを意味する。……イエスと同じような苦しみの中で歴史の道を歩んで行った先達、また名もなく光もなく義のために殉じた多くの魂にも向かう心でなければならない。”
(「なぜ少数の人のみがイエスを信ずるか」李文永、『主イエスよ来たり給え − ガリラヤ教会説教集』 p.48-49、新教出版社 1978)
(1991年10月6日 神戸教会週報 岩井健作)