父の家にいる《ルカ 2:41-52》(1992 週報・説教要旨・ソ連邦崩壊)

1992.1.5、神戸教会
降誕節第2主日・新年礼拝
(1991年12月25日 ソ連邦崩壊)
(翌週週報に説教要旨掲載)

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、ルカ 2:41-52、「父の家にいる」岩井健作

 ”すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。”(ルカ 2:49-51、新共同訳)


 教会暦の聖書テキストを学びます。

 クリスマスから復活祭は「イエスの生涯」が中心です。

 福音書はこの時期もう一度心して読みたいと存じます。


 福音書は単なるイエスの伝記ではなく、「福音」を伝える信仰による歴史文学です。

 4つの福音書は、それぞれ特徴を持っています。

 マタイがユダヤ的伝統を重んじ、マルコがガリラヤの辺境性を視点とするなら、ルカは時間・歴史を意識した展開をしています。


 その意味で、今日のテキスト「神殿での少年イエス」は極めてルカ的です。

 イエス誕生物語と公生涯の間に少年時代を入れたのは、ルカだけです。

 トマスによるイエスの幼児物語にも同じ説話がありますが、これは偉人を讃える神童物語の文脈で扱われています。

 しかし、ルカは明確な神学的・信仰的意図による構成を持っています。

 3つに分けて考えてみます。


(1)ルカ2章41節〜45節

 イエスを見失った両親は、構造的には、24章の女たちが墓でイエスの身体を見失って途方に暮れたことの先取りを示します。

 人は、イエスを見失うことにおいて、イエスに出会います。

(2)46節〜47節 ”三日目に……見つけた”

 ”三日目”はイエスの復活を証言する用語です。

(3)48節〜50節

 両親の驚きは、イエス再発見の驚きです。

 イエスが「救い主・神の子」であることを「誕生物語」では天使や預言者シメオンが証言するのに対して、公生涯を前にして、イエス自らが「父の家にいる」と語ります。

 時の流れがあります。

 両親は血縁関係の絶対性が否定されているのに、そのことが分かりません。

 しかし、母マリアは心に留めます。


 ”するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存知なかったのですか」。しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。”(ルカ 2:49-51、口語訳)



 朝日新聞の編集委員・伊藤正芳氏は、論説で次のように書いています。

 ”1991年は、近代国家の原理に大きな疑問符がついて(ソビエト連邦の崩壊 1991年12月25日)、民族共同体の血のぬくもりが復権した。しかし、その血縁の象徴、民族主義の偏狭はまた動乱を生み出し、新たな問題を孕んでいる。”


「父の家にいる」とは、”一元的な統一のスローガン”ではなく、”血の繋がりへの相対化”です。

 物語は、イエスが両親に仕えたと続きます。

 母マリアの「心に留める」とは「注意深く見守る」との意味です。

《不在と発見/直接性とそれを破るもの/失って見つける》

 このことを心に留めることが、歴史を生きるということです。

 それは「復活」の信仰に支えられて、イエスの十字架の後へ従うということです。

 今年も、課題を負って、励みたいと存じます。

(1992年1月5日 説教要旨 岩井健作)


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