諸刃の剣《ルカ 6:39-45》(1992 週報・本日説教のために)

1992.2.16、神戸教会
降誕節第8主日

(神戸教会牧師15年目、牧会34年、健作さん58歳)

この日の説教、ルカ6:39-45「諸刃の剣」岩井健作


1.ルカ6章39節〜45節

 は、ルカ福音書の「平野の説教」の結語の前の最後の部分にあたる。

 元来、イエスの語録(Q語録)としてまとめられていたものが資料となっている。

 主題、及びマタイとの並行句は下記の如くである。

 ・盲人が盲人の手引き(ルカ 6:39)(マタイ 15:14)

 ・弟子と師(ルカ 6:21-42)(マタイ 10:24-25)

 ・目の中のちりと梁(はり)(ルカ 6:41-42)(マタイ 7:3-5)

 ・木と実の関係(ルカ 6:43-45)(マタイ 7:16-20、12:33-35)


 このような一連のまとまりとして、収集された言葉群には「Q語録」と「ルカ福音書の著者」の神学が反映していて、個々の断片章句とイエスが託して語ったものとの間には、かなりの差異があるであろう。

 ここは注意して読み取らねばならない。

2.「盲人の手引き」(ルカ6章39節)

 ”イエスはまた一つの譬(たとえ)を語られた、「盲人は盲人の手引ができようか。ふたりとも穴に落ち込まないだろうか。”(ルカ 6:39、口語訳)


 全体の文脈からは、教団の指導者層への言行不一致への批判として、用いられている。

 けれども、盲人に対するイエスの他の言葉(ヨハネ 9:3、マルコ 8:22、マルコ 10:46以降)から、本当にイエスが「盲人」を”悪い例の譬え”にしたとは思えない。

 盲人を盲人として、認め生きることへの文脈、すなわち「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」(ヨハネ 9:3)の考え方によれば、盲人が社会的差別のゆえに、盲人同志もたれあって生きるために穴に落ちる悲惨さを訴えており、盲人の自立を、諺(ことわざ)の裏に含ませて語られた言葉と受け取れる。

 ”イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれかが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである”(ヨハネ 9:1-3、口語訳)


 盲人についての諺を、盲人差別を再生産してゆくような仕方で、別のことのマイナス比喩として語ってはならない。

 諺の用い方は、諸刃の剣となる。

3.「目の中のちりと梁」(ルカ6章41節〜42節)

 ”なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることが出来るだろう。”(ルカ 6:41-42、口語訳)


 これに類した格言は世界各地にある。

 この格言が真理であるだけに、語る主体は諸刃の剣で切られる体験なしには語れない。

 イエスの十字架に極まる生涯に重ね合わせる時、それはもはや一般的格言であることを止めて、主体の奥底を揺さぶる言葉となる。

 言葉は、語り手の主体が撃たれることなくして、活きた言葉とはならない。

 パウロは「十字架の言葉」と表現した。

 ”十字架の言(ことば)は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。”(Ⅰコリント 1:18、口語訳)


4.「木と実の関係」(ルカ6章43節〜45節)

 ”悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。”(ルカ 6:43-45、口語訳)


 ルカの教会も「言葉と主体」の分離の問題、もしくは言葉が温かみのある内実を感じさせないことに悩んだのであろう。

 それはまた、イエスが負われた世の罪の苦悩に通じる。

 この悩みを負うことは、イエスに従うことの証しである。

(1992年2月16日 本日説教のために 岩井健作)


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