弱さによって《マタイ 8:14-17》(1993 礼拝説教)

1993.7.11、神戸教会 礼拝説教(週報「本日の説教のために」)
翌週7.18、夏期特別集会:高橋敬基「律法の行いによらず信仰による」

マタイ 8:14-17を読むために(新共同訳 見出し「多くの病人をいやす」)

 最近ボンヘッファーについて示唆に富む論考を読みました。

 ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)は、第二次世界大戦下、独裁者ヒットラーのナチ政府に抵抗したドイツ告白教会の牧師・神学者です。

 逮捕され獄中にある間の書簡は日本でも『抵抗と信従』(森平太・倉松功訳 新教出版 1964)として知られています。ドイツ敗戦の直前に処刑されました。39歳でした。

 沖縄・宜野湾伝道所牧師・村椿嘉信氏は、彼が編集委員の一人である雑誌『のら』(季刊)に「ボンヘッファーを読む」という文章を書いています。

 その中で、ボンヘッファーがいち早くナチのユダヤ人を公務員から排斥する法律(アーリア条項)の重大性に気づいたのは、妹の夫がユダヤ人であったり、彼の周囲のユダヤ人の声を聞いたからであり、何か大きな倫理大系の要請ではなかった、と言っています。

 また、ボンヘッファーの魅力はその「断片性」にあるとも言っています。これは39歳で死んでしまったから未完成なのではなく

「すべてを完成させるのは最終的に神であるゆえに断片的にならざるを得ないという意味での内容的な『断片性』がある」

 というのです。

 ボンヘッファーの神理解は常識的宗教人(私たちがしばしば陥りやすい)の神観念を覆します。

「人間の宗教性は、人間が困窮に陥った時に、この世における神の力を示す。その時、神は機械仕掛けの神である。聖書は、神の無力と苦難を示す。苦しみ給う神のみが助けを与えることができるのだ」

「神は、僕たちが(機械仕掛けの)神なしには生活を処理できる者として生きなければならないということを、僕たちに知らしめ給う。僕たちと共にい給う神とは、僕たちを見捨て給う神なのだ(マルコ 15:34)。……神の前で、神と共に、僕たちは神なしで生きる。神はご自身をこの世から十字架へと追いやり給う。神はこの世においては無力で弱い。そして神はまさにそのようにしてのみ、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、また僕たちを助け給うのである。キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さと彼の苦難によって僕たちに助けを与え給うということは、マタイ8:17に全く明瞭である」(『抵抗と信従』選集5、p.253)

 今、世の中は宗教ブームだそうです。既成宗教の救いの教義、現代的神秘宗教の中に「機械仕掛けの神」がいないでしょうか。

(サイト記)説教原稿は手書きで11ページある。上掲のテキスト「マタイ 8:14-17を読むために」は週報に印刷されたものであるが、健作さんは説教原稿の9ページまでボンヘッファーについて一言も触れない。10ページ目で、以下のようにこのテキストが(マーカや赤ペンつきで)語られる構成になっている。

マタイ 8:14-17(新共同訳 見出し「多くの病人をいやす」)

 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

(最後のページ:原稿 p.11)

 私たちは、苦しいことに直面する時、自分だけが苦しんでいると思う。

 苦しみというものの性格はそういうものである。

 しかし、私より先に、私と共に、患いを負い、病を担った方がおられる。

 決して自分独りではない。

「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 その「言葉をそのまま」の方がおられるということに慰めを与えられたい。

 今私たちの時代は、病める者と共なる神を求めています。

 その神(=イエス)を証ししてまいりたいと存じます。

(サイト記)直筆原稿は健作さんから「待った」がかかれば即削除します。 m(_ _)m

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1993年 説教

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