「律法の行いによらず 信仰による」高橋敬基(1993 引用)

1993.7.18 神戸教会主日礼拝・夏期特別集会 週報 No.29 所収

夏期特別集会講師:高橋敬基氏(農村伝道神学校教師、8月より校長)による説教要旨

ガラテヤ 2:15-21


「律法によらず、信仰による」というこの福音理解はプロテスタント教会の中心的教義となってきました。神の前に立つのは、自分の功績によってではなく、ただキリストの贖いによる。現代社会の問題とか歴史の課題などに目を奪われることなく、ひたすらキリストの贖罪、神の恩寵に心を集中すべきである、と「福音主義」を標榜する方々は主張なさいます。私もそのような信仰を持っていましたし、ガラテヤ書もほぼそのように言っているようです。

 ただ、ヤコブ書やマタイ福音書はこんなふうには言っていません。また、ハバクク書2章4節の解釈も必ずしもパウロの言う通りとはいえません。しかしそもそもパウロのここでの発言を、ただ黙ってキリストを念じることである、というふうに受け取って良いのでしょうか。

 確かにパウロの発言は聞き苦しいところが少なくないし、それを延長するととんでもないことになります。パウロの論法はかなり危ういところがあることを認めざるを得ません。その差別的自意識、論敵に対する一方的理解、キリスト論的集中による歴史の欠落、現実問題の観念的解決、等々。ともかくここにはアクの強い自己主張が看て取れます。

 しかし、もう一度この信仰義認論のコンテキストに注目してみましょう。

 そもそもガラテヤ人への手紙は、神学論文ではなく、ガラテヤにある諸教会に起こったエルサレム教団系列の権威主義的なユダヤ人キリスト者の「も」の神学による混乱に対してパウロが書いた実践的手紙です。初期の教会の歴史の文脈で言えば、成立して間もないキリスト教会がユダヤ人の社会の中でーセクトとして生き延びていくか、純粋に福音の力によって生きるかという決断を迫られている状況です。テキストの文脈は、パウロは敵対者に対する喧嘩腰の論争であり、アンテオケでのケパやバルナバの振る舞いに対する攻撃です。

 こうして見ると、信仰義認論は信仰と行為、つまり他力本願と自力救済といった対立などではなく、誰と飯を食うか、誰と共に生きるか、の問題として提起されていることになります。

 丁度、食卓規定に人々を縛りつけようとしたパリサイ派の律法学者に対してイエスが挑戦的に議論を仕掛け、自らガリラヤの民衆と共に飲み食いしたように、パウロもユダヤ人社会の伝統・常識の枠を越え、当時のヘレニズム社会の周縁人たちを巻き込みながら、新しい人間関係を作り出そうとしていたと言えます。

(本日説教要旨 高橋敬基)

(サイト記)本文中に”「も」の神学”という表記があります。下がオリジナルになります。サイト本文ではとりあえず取り消し線を引きましたが、オリジナルは括弧付きであることが、気になっています。高橋先生の説教当日の週報での説教要旨なので、オリジナルは高橋先生の原稿だと思いますが、私には解読できそうにありません。

 『土の器に盛られたいのちの言葉ー聖書をどう読むかー』(神戸教会伝道部委員会 2003、神戸教会夏期特別集会記録)の中に、1993年7月18日礼拝後の高橋敬基氏の講演(主題「聖書と教会〜ローマ人への手紙を学ぶ」、発題講演「神の義〜ローマ人への手紙を学ぶ」)記録が収録されている。

高橋先生の夏季特別集会の翌週、健作さんの説教要旨「死に向かい合う ー 夏期特別集会からまた新しく」

 この礼拝の牧会祈祷(読み取れない部分あり……)

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