それで私は今日の聖書テキストに、ルカの15章4節を選んだのです。
”「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。”(ルカ 15:4、新共同訳)
ルカとマタイはよくお読み頂くと、ずいぶん違うんです。
結論から先取りして言いますと、新約聖書学をやっていらっしゃる荒井献先生は、本当の原型はルカの15章4節に残っているだろうと言っております。
ルカとマタイの共通資料がありまして、これを普通Q資料といっておりますけれども、Qのもう少し原型の伝承のところは、おそらくこのルカ15章4節でしょう。
あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。(ルカ 15:4、新共同訳)
これが大体もっとも原型の資料であって、これに色々な物語が付いたわけですね。
マタイ福音書の方は、マタイの神学というのがありまして、マタイというのは教会を創って行かなければならないという、教会形成の神学というのを持っていますから、「山に残しておいて」と書き換えてしまっています。
「山」はエルサレムの聖域です。だから99匹は「山」の聖域に保護しておいて、そして迷い出た羊を問題にします。迷い出た1匹を探し求めるという思想です。
例えば、登校拒否をしている者をなんとかして学校へ連れ戻そうというような、こういう思想と同じですね。
迷っている者を救うという実態はそうじゃないんです。
登校拒否をしている人は登校拒否をして何か現状に対する批判をしているのです。
文明に対する批判をああいう形で表さざるを得ないという必然性があるのです。
それこそまさに学校に来る人が良くて、学校に来ない人が悪いということではないんです。
マタイはこれを山に残されたものが正常で、迷い出た1匹が正常ではないということにしてしまっています。
一方で、ルカはここの所を「野原」と言います。
野原というのは”エレイモス”という言葉で「荒野」と訳した方が良いのではないかと思います。
99匹を「原野」に残しておいて、そして失った1匹を見つけ出すということを考えてみますと、大体羊を飼っている人は安全なところに99匹を置いておいて、迷い出た1匹を探し出すのが羊飼いとして当然のことです。話の整合性からいえば、この方が譬(たと)えになるわけです。
ところが、ルカの話は譬えになりません。
だから「譬え話」なのです。
ある事柄の譬えではなくて、これはお話になっているわけです。
99匹を原野に置いておくということは、99匹もそこで危険を体験するわけです。
危険を体験した上で、出て行った1匹を見つけ出すのです。
99匹と1匹は同じ状況に置かれているんです。これは逆説です。
つまり、ユダヤ教の共同体の中で疎外されていなくなった「地の民」といわれる、そういう人、差別をされている人、あるいは、単なる障害ではなくて、障害に加えて宗教的な意味を付けられて、社会から疎外されている、そういう人と同行した、行動を共にしたイエスの行為、振る舞いのロゴス化といいますか、言葉化がここにあるんだと思います。
共同体に帰属している人々に対する批判行為を言っているわけです。
99匹に対して、そこが安全だという、聖なる領域にいて我々は忠実なる教会信徒であるという、キリスト教徒であると言っている人々に、それは一体なんなのかという批判と問いを与えているということが、実は1匹を尋ねていくという行為になるわけです。
ですから、キリスト教の信仰というのは、聖書を読んで養われるわけですけれども、聖書を読むということと、キリスト教の関係なんですが、出来上がっている宗教観念の中に自分の頭を突っ込んで、そこに救いの観念を自分の物として救われるという、こういうことが宗教の救いであるとすれば、イエスはそういう宗教を批判したのです。
ですから、そういう安全性・観念性が破られていくところに、実は聖書を読むという行為があるし、信仰するという行為があるのです。
大概の場合、信仰というのは入るものだと思っているけれども、そうではなくて、信仰というのは砕かれることだと思うんです。
本当に徹底した、そういう自己批判と自浄作用に自分を任せていくという事です。
ここのところはすごく誤解されてしまうところです。
宗教というのは普通よく深入りをするなといわれます。それは観念的思い込みに走ると、周囲との関係が独善的になりがちになるからです。
マタイ福音書が「荒野」を「山」に変更しているのは、そういう意味ではある種の観念化を犯しているのです。
それから、ルカ福音書はこの譬え話の結論を「悔い改め」に収斂していますから、ルカの神学は譬えを「悔い改めること」が大事だという事になります。
マタイは「いと小さき者」という言葉を使って「小さき者」を大事にするのですけれども、教会の中の弱い人を大事にするという、要するに、教会共同体というものが壊れないよう一生懸命に補完するという事を、神学的に言っています。
これはマタイ福音書が価値がないという意味ではないです。
そういう形で私たちはマタイ福音書やルカ福音書を読み、その事を通してメッセージを聞くということが大事なのです。
そういう読み方、これは聖書を歴史批判的にきちっと読んでいくということだと思うのですが、そういう意味でキリスト教の信仰の方向を教義化の方向、教義という一つの観念形態の中に自分が入っていくという方向で捉えるのではなくて、もう一つ別な方向、邂逅(かいこう)史化の方向で捉えることが大事だと思うのです。
「邂逅史」というのは使い慣れない言葉で、ドイツ語の”ゲシュヒテ(Geshichte)”という言葉を訳して使っているのですけれども、要するに「出会いの歴史」ということです。
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インデックス:阪神大震災とキリスト者・冊子「被災地の一隅から」
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