阪神大震災とキリスト者(1/5)

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 ルカ 15:4


1995年度 日本基督教社会事業同盟主催、ホーリスティック社会福祉研究所共催 「秋の講演会・研修会 基調講演」 於舞子ビラ(兵庫県神戸市) 1995年11月17日(震災から10ヶ月)

「ホーリスティック社会福祉研究」創刊号 1996 所収、冊子「被災地の一隅から」所収

 ご紹介頂きました岩井です。はじめに地震の話でなくて恐縮なんですけれども、揺れ動くということで私がいつも思い出す話をさせて頂きたいと思います。

 評論家であり哲学者の鶴見俊輔氏が、同志社大学の設立者である新島襄の短い評伝を書いています。彼の見方は大変鋭くて、新島襄が幕末、なんとかして日本の国を興していかなければいけないという愛国の志に駆られて、そして、アメリカへ行って、兵法、つまり軍事について学ぼうとします。

 新島は函館からベルリン号にいるときに、ことばが通じない、そして、人間関係が全部変わってしまう、それで船の上で波に揺れながら、甲板掃除などをしているわけですけれど、発音が出来ないものですから、水夫が来て彼の口を押さえて「Do」という発音をさせるのです。「Do」「Do」と、武士たるものに何たる無礼と彼はキャビンに帰って、太刀を抜いてその水夫を斬ろうとします。ところがそこで彼はこの水夫を一人斬っても、自分の志を遂げることが出来ない、自分はもはや日本の武士階級が乗っているそういう階級制と社会のなかに何らの地位を持たない、ということを悟り、そして彼はその太刀を納めます。ここで、船から放り出されてしまえば海の中に消えていくわけですから、その時に本当に孤独を感じるわけです。ことばが通じないし、誰も知り合いがないし、一切の身分というものが無いわけです。

 その時に彼はかつて読んだことのある、ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーの話を思い出します。ロビンソン・クルーソーが絶海の孤島でお祈りをするという場面が非常に心に残っていました。そこで、お祈りをするのです。彼は後に小刀を売って上海で漢訳の聖書を買います。最初にあけたことばが、「神、はじめに天地を創りたまえり」ということばでした。彼はこんな経験の中で、だんだんに長髪を切っていくんです。それで断髪になります。それには今原野先生がお話しになった様に時間の経過があるのです。

 永い永い時間の経過があって、船の中にずっと揺られていくうちに変化します。それで彼はアメリカ着いた時に自分は何を学ぶべきかという、本当に学ぶ目的というものが、兵法、軍事、科学を学ぶのではなくて、文化を学ぶということに変わっていくのです。そこには物凄い内面の経過があるわけです。それこそ今の先生のお話の様にため息もついただろうと思うのです。

 その変化を鶴見さんは、「陸地の思想」から「洋上の思想」ということばで非常に巧みに表しています。「陸地の思想」というのは下が動かないから変わらないんですね。それに対して「洋上の思想」、「海の思想」と言ってもいいんですけれども、「洋上の思想」というのは、自分の足元は全部揺れ動いてしまうから既知の拠り所には頼れなくなります。

 自分が今生きているところの人間の関係を本当に保障するのは一体何かというところに思い当たっていくわけです。

 揺れ動くということは、そういう意味では大変、私どもの思考を変えていくという凄いインパクトを持っていることなんです。だから私はこの地震に出会ったということは、神戸が揺れ動いたということは、マイナス面ばかり伝えられますけれども、そうではなくて、そこで人間が変わっていくという、文化が変わっていくという大変凄いチャンスを与えられていると思うのです。

 ここに(1995年)1月20日の神戸新聞の社説があります。
被災者になって分かったこと」というタイトルです。

「あの烈震で神戸市東灘区の家が倒壊し、階下の老いた父親が生き埋めになった。三日目に、やっと自衛隊が遺体を搬出してくれた。駄目だという予感はあった。

 だが、埋まったままだった二日間の無力感、やりきれなさは例えようがない。

 被災者の恐怖や苦痛を、こんな形で体験しようとは、予想もしなかった。

 あの未明、ようやく二階の窓から戸外へ出てみて、傾斜した二階の下に階下が、ほぼ押し潰されているのが分かり、恐ろしさでよろめきそうになる。父親が寝ていた。いくら呼んでも返答がない。

 怯えた人々の群が、薄明の中に影のように増える。軒並み、かしぎ、潰れている。ガスのにおいがする。

 家の裏へ回る。醜悪な崩壊があるだけだ。すき間に向かって叫ぶ。

 何を、どうしたらよいのか分からない。電話が身近にない。だれに救いを求めたら良いのか、途方に暮れる。公的な情報が何もない。

 何キロも離れた知り合いの大工さんの家へ、走っていく。彼の家もぺしゃんこだ。それでも駆けつけてくれる。

 裏から、のこぎりとバールを使って、掘り進んでくれる。彼の道具も失われ、限りがある。いつ上から崩れてくるか分からない。父の寝所と思しきところまで潜るが、姿がない。何度も呼ぶが返事はなかった。強烈なガスのにおいがした。大工さんでは、これ以上無理だった。

 地区の消防分団の十名ほどのグループが救出活動を始めた。瓦礫(がれき)の下から応答のある人々を、次々、救出していた。時間と努力のいる作業である。頼りにしたい。父のことを頼む。だが、反応のある人が優先である。日が暮れる。余震を恐れる人々が、学校の校庭や公園に、毛布をかぶってたむろする。寒くて、食べ物も水も乏しい。廃材でたき火をする。救援物資は、なかなか来ない。

 いつまで辛抱すれば、生存の不安は薄らぐのか、情報が欲しい。

 翌日が明ける。近所の一家五人の遺体が、分団の人たちによって搬出される。幼い三児に両親は覆いかぶさるようになって発見された。こみ上げてくる。父のことを頼む。検討してくれる。とても分団の手に負えないといわれる。市の消防局か自衛隊に頼んでくれといわれる。われわれは、消防局の命令系統で動いているわけではない、気の毒だけど、という。

 東灘消防署にある救命本部へいく。生きている可能性の高い人からやっている、お宅は何時になるか分からない、分かってほしいといわれる。十分理解できる。理解できるが、やり切れない。そんな二日間だった。

 これまで被災者の気持ちが本当に分かっていなかった自分に気づく。”災害元禄”などといわれた神戸に住む者の、一種の不遜さ、甘さを思い知る。

 この街が被災者の不安やつらさに、どれだけこたえ、ねぎらう用意があったかを、改めて思う。」

 これはもう社説ではありません。まさにジャーナリストが社説にこういうことを書くというのは、本当にこれは地面も文化も揺れている、その中でしか書けない文章です。私は社説にこういうことを書くということは、「社説」の観念が揺れ動いたことだと思います。

 この方のお父さんは小学校の教員をしていらした方なのですけれども、後から遺体になって掘り出されます。災害元禄などといわれた神戸に住む者の、その足元が揺れてくるという、まさに思考を変えていかなければ生きていけない、そういう状況の中、ある小学校の校長先生が、知識は役に立たなかったけれども、知恵は役に立ったと言っています。

 どういう風に生きるかという知恵を持っている人がそこで本当に活躍した。頭に知識を詰め込んでいる人は本当に役に立たなかった。そういう意味では、固定観念とか「陸の思想」とか、揺らがない思想というものが、本当に問われたのです。

 状況で考えるということ、出会いの中で考えるということ、そういう思考の切り替えをしなければならないわけです。

 ですから生かされていて良かった、生きていて良かったというあの震災後の実感というのはそれを物語っていると思います。

 大阪へ行くとまるで違う街に行ったようで、ショウウィンドウにいっぱい物が並んでいるけれども何も欲しいとは思わなかったと、これも新聞の投書欄にありました。しかし、現在は全部戻ってしまいました。「陸地の思想」になってしまったのです。十ヶ月経つとそうです。