阪神大震災とキリスト者(4/5)

阪神大震災とキリスト者(4/5)

 それで、個別性ということで一つつけ加えますと、これも私、自分で書いた文章で恐縮ですけれども、教会の会報(『神戸に住む』「神戸教會々報」1995年7月16日号所収)に書いた文章なんですが、阪神大震災被災地図というのがあって、これ大変便利なんですが、どこが半壊で、どこが全壊で、どこが焼けたかというようなことが全部調査してあって、細かに色分けしてあるんです。

 私のところに1月17日の時点で圧死をされた方、タンスで圧死したんですけれども、この方の葬儀を、とにかくその時は火葬ができなくて、1月25日に一応火葬して、そして5月になってから葬儀をいたしました。

 私はこの方が亡くなった時の状況を知りたくて、ずいぶん尋ねて、この方を救出したという方にやっと巡り会いお話をお聴きしました。

 どんな状態でお亡くなりになってたんですかと聞いたら、仏壇屋さんの店主なんですけど、話し出したら、自分があの日どういう風に東灘の家で被災をして、中央区まで息子のバイクでやってきて、というように、もう物語なんです。話し出したら1時間切れませんでした。その方のドアを蹴破って、タンスを起こして、まだ暖かいのを引きずり出して、とにかく近くの救急病院へ連れて行って、カンフルやリンゲルをやってもらって、自分はその次の用事があるからそこで別れたのだけれども、後で遺体収容所の名簿でその方の名前を見たってことで死を知ったと言われました。

 遺体収容所から親戚の方を通して私のところの教会に遺体を預かることになって、10日くらい預かっていたのですけれど、私はその話をお聞きしながら、あの一つの被災地図の内側には5502名(当時の)一人一人について全部そういう個人史の物語が秘められているということに気づかされました。

 これ、いったい誰が聴くのでしょうか。

 本当に聴くことはできません。しかし、残された者には、個々人に物語があるということ、そういう個別性が重いものだということ、亡くなった方の最期にどれだけの想像力を持つことができるかという、そういう感性が問われている気がしてなりません。感性の鈍さを逆に知らされる思いが致します。

 聖書の話に戻ります。99匹を荒野に残しておいて、そして1匹を尋ね求める時に、その99匹が多少なりとも荒野で経験し得る危険な体験があればこそ、実はあの1匹に対して私どもが心を寄せるということができるので、野原に置かれているとか、荒野に置かれているということが非常に大事なことだということを、このルカの15章の4節は語っているのだと思います。

 99匹が荒野に残されなければ、荒野に放り出されなければ、これは放置すると訳した方がよいと思うのですが、放置されなければ実はここで1と99の関係は生まれてこないのです。

 この話は、一人が大切だ、人格が大切だという話、そういう教義的、教訓的な話ではなくて、99と1との緊張において、それぞれの関わり方の大切さを訴えているのです。

 関わりというのはイマジネーションなんです。あるいはファンタジーです。想像力なんです。そういう感性が呼び覚まされる緊張関係を作り出しているのが、状況存在としての99と1なのです。

 震災後、大変興味をもって読んだ本に野田正彰著『災害救援』(岩波新書 1995.7)があります。この方が「心のケア」という言葉を使い始めた方です。

 著者は医師で専攻は精神病理学、比較文明論です。現在は京都の大学の教授です。行動的な方で、奥尻や島原の災害にはすぐに出かけておられます。この本は災害の構造、救援の思想について述べていますが、阪神大震災後の様々な行動につき、批判が記されています。例えば、行政のトップレベルの人が、地震発生の時点で想像力を働かせていたら、救援活動は違った展開をしていたかもしれないということです。

「兵庫県知事の貝原俊民さんは、知事公舎の窓の外に火の手を見ながらも何もしていない。1時間も経って『明るくなりかけてから外に出てみた……<大きな災害になるかもしれない>と身支度を始めた』という。……彼は反省すべき点として『初期段階で状況把握と緊急通報ができるシステムになっていなかった……」といっている。……地震直後は、危機への想像力を欠いていた。それを彼はシステムの問題にすり替えて語っている」(同書 p.65-66)

 と指摘しています。

 ジャーナリズムにしても、例えばTBS「ニュース23」の筑紫哲也さんのように「煙がどんどん上がっていて、温泉街に来たような感じがしています」(1月17日午後11時20分頃、ヘリから)と語っていて、厚顔な言語化は、その下で何が起こっているのかの想像力を欠いていることを指摘しています。