阪神大震災とキリスト者(5/5)

阪神大震災とキリスト者(5/5)

 今日は、「阪神大震災とキリスト者」というテーマですが、一つの危機にあたって、キリスト者であるということの大切な点は、危機の状況にある者にどれほどの想像力を持ち得るかということです。

 ドロテー・ゼレ(ドイツの神学者)は『キリスト教倫理の未来』(新教出版 1987)の中で、ナザレのイエスは「私たちの想像力を解放し給うた」(p.76)と述べ、自らがその模範と献身そのものであったことを主張しています。そして

「想像力は……私たちのこの世との対決の実りとして生成する。それは私たちがこれまでに体験した、あるいは、私たちが自分自身に与える教育から育ってくる。ある人間は、それゆえ、その人生行路において、ますます想像力豊かにもなり得るし、あるいは平均的な場合には、次第に想像力を失い、その人生計画において、ますます貧しくなり、彼が人生体験とか、人間知と名付けるものに固定されていくこともあり得る。」

 と言っています。

 その意味では地震に直面したものは、この想像力を引き出せるか否かで、恵みと審き、死と生命、孤立と連帯という二面性に立ち、神からの問いかけを受けているのです。

 この問いを問いとして受ける応答性が、キリスト者たることの内容でもあります。

 それはまた、根源的存在に向かって、殻をもった自我が揺れ動いて、応答という関係の中でいのち(新約聖書 マタイ 6:25、マルコ 3:4)を得ることでもあります。

 さて、一冊の絵本を紹介して、この話を終わりにしたいと思います。

 レオ・レオニの『フレデリックーちょっとかわったねずみのはなしー』(好学社 谷川俊太郎訳)。レオ・レオニは、ドイツでナチスに迫害を受け、アメリカに渡り、また、マッカーシズムで迫害にあった芸術家で、晩年になって絵本を書きました。『スイミー』は日本でも小学校の教科書に入っている有名な作品です。この『フレデリック』は1967年の作です。

 ある農場に五匹のねずみが住んでいます。冬に備えて四匹は来る日も来る日も食糧を蓄えて働きます。ところが、フレデリックはじっと光を見つめたり、瞑想したりしています。
「君はいったい何をしているの」と聞かれると、
「寒い日のためにお日さまの光を集めているの、長い冬に備えて、話の種が尽きないように、ことばを集めているんだ」などと言います。

 やがて冬が来ます。石垣の間に巣篭もりをした五匹は、はじめ楽しくしていますが、やがて食糧が尽きてしまいます。もう四匹は凍えて話す気にもなりません。

「フレデリック、君の集めたものはどうなったの」と聞きますと、フレデリックは「目を瞑ってごらん」と言い、夏の太陽の話をします。綺麗な花や木々の話をします。すると四匹の心に豊かな想像力が働き元気が出ます。

 そして「ことば?」との問いに、フレデリックは「四匹の野ねずみの歌」の詩を語るのです。四匹は拍手喝采です。

 レオ・レオニは「わたしがいちばん関心を持ってきたのは事実ではなくて、本質ですし、本質を感じることは、意味を感じることにつながります」と言っています。

 地震という出来事は私たちの力でどうすることもできない事実です。

 しかし、この事柄が私たち人間に突きつけている本質を感じ取るかどうかが大事です。

 寒い冬に向かって、食糧や物質はもちろん大切です。でもフレデリックを抱え込んでいる野ねずみの豊かさはほほえましいものです。レオニは技術社会における詩人の役割を考えていたと思います。

 わたしはこれを比喩に用いさせていただければ、技術社会における信仰者の役割もまた同じだと信じています。

 皆様と共に、これからも想像力を働かせて、地震の現実を励んでゆきたいと存じます。

 ご静聴ありがとうございました。