2002.2.3、 神戸教会、神戸教会週報、降誕節第六主日
(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任まで2ヶ月)
ヨブ記 7:17-21、説教題「訪れ顧みられる神」
”人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか。”(ヨブ記 7:17、新共同訳)
これと大変似た言葉が詩編にあります。
”そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。”(詩編 8:5、新共同訳)
ヨブ記は「人間 ”エノーシュ”」を否定的な文脈で用います。
苦しみの中にあり、死を望むヨブが、「神は何故こうも正しい者を苦しめるのか」と問います。
なぜ「朝ごとに訪れて確かめ」(ヨブ 7:18)苦しめるのか。「人間は何ものなのか」という意味です。
詩編は、肯定的に用います。
弱い、死すべき人間に、「御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれる」(詩編 8:7)とは、驚くべきことだ、という意味です。
”御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。”(詩編 8:7、新共同訳)
ヨブ記の「訪れ」と詩編の「顧みて」と訳されている言葉は、同じ言葉”パークヮド”です。
一方は「責め、調べる」というニュアンスですが、詩編は「顧み、包み、育む」という意味合いです。
両者は異なるようですが、人間への神の多様な関わりを示しています。
でも、根本では一つです。
ヨブ記は、神の人への関わりの激しさ・徹底さを示しています。
7章のヨブの言葉は、その激しさに自暴自棄になっていると思えるほどの言葉が続きます。
”もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください。わたしの一生は空しいのです。”(ヨブ記 7:16、新共同訳)
詩編では神への関わりの広さ・深さが示されています。
”あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。”(詩編 8:4、新共同訳)
詩編では顔の面は天に向いているのに、ヨブ記では地に向かって投げつけられています。
ヨブ記は「神の蝕(しょく:日蝕など欠けたことを表す)だ」と言ったのは、ユダヤ人哲学者 M•ブーバーでした。不在ではなくて、あるけれども見えないという状態です。
これとは逆に「あなたの御名は、全地に満ちている」と「自然における神の栄光」に言葉が弾んで流れる世界が詩編です。
”主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。”(詩編 8:1、新共同訳)
何故こうも陰影がはっきりしているのでしょうか。
それは、風土にも関係があります。中東の人々の顔の彫りの深さを見ていて、厳しい風土を思います。聖書を生み出した風土は「緑の牧場」と「死の陰の谷」を同時に宿しているのです。
その陰影を一つの詩に読み入れて、神との関わりに反映させます(詩編23編)。
ヨブ記も詩編も共に、顔は神に向けられているのです。
「人間の顔は、人々にというよりも、むしろ神に対して捧げられている。人間の顔はまず神への返答である。顔は造物主に対して答えるのだ。」(『人間とその顔』M.ピカート、みすず書房 1959)
神が私の顔を十分に眺めてくださるには忍耐の時間が必要なのでしょう。
ヨブの過ごした時間に習って、精一杯生きていきたいと存じます。
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