ヨブ記を再び読む《6:14-23》(2002 礼拝説教・週報)

2002.1.27、 神戸教会、神戸教会週報、降誕節第五主日

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(神戸教会牧師退任まで2ヶ月)

ヨブ記 6:14-23、説教題「全能者への畏敬」

 ヨブ記6章は、エリファズの弁論(4章−5章)に対する、ヨブの応答です。

 少し細かい区分をすると、次のような内容になります。

 ① 憤りが正しく計られるように(6:1-7)。

 ② 自己自身の義の確信と死への願望(6:8-13)。

 ③ 友人への失望(6:14-20)。

 ④ 正しい言葉を語れ(6:21-27)。

 ⑤ 真相に向かう精神(6:28-30)。


 財産・家族の喪失、自らの病苦によって、ヨブは呻き、自分の生を呪い、死を願います。

 友人エリファズは、これではいけないとヨブを諌めます。

 なぜなら、ヨブ自身が、人を励まし、諫める立場にあった人だからです。エリファズの語る内容は、言葉としては正しさを持っています。しかし、それがヨブにおいては力にならない所が問題です。

 このすれ違いが、どこから来るのか、そこを浮き彫りにしているのが6章です。


 まず、ヨブの側を見ると、彼には「自己の義の確信」があります(6:10)。

”仮借ない苦痛の中でもだえても、なお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったということです。”(ヨブ記 6:10、新共同訳)

 彼は苦痛の中でも「聖なる方」すなわち「神の言葉」を否むことはなかった、と主張します。

 ヨブの側の自己完結です。

 エリファズの側を見ると、苦しむヨブに「忍耐をせよ」(6:11)と語ります。

”わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。”(ヨブ記 6:11、新共同訳)

 苦しむ者に倫理的な言葉は力になりません。

 言葉が力を持つのは、相手を包む愛、無償の愛、それゆえに贖いの愛に裏付けられている時なのですが、友人を思うエリファズには、なおそれが欠けているのです。

 鋭いヨブは、結果として「言葉には、言葉を」と14節の言葉を友人に投げかけます。

”絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ。さもないと、全能者への畏敬を失わせることになる。”(ヨブ記 6:14、新共同訳)

 新共同訳では「友情を示せ、さもないと(あなたの、あるいは私の、とも受け取れる)全能者への畏敬は失われる」と読めます。

《言葉が力を持たないのは、あなたが全能者への畏敬を持っていないからだ》、あるいは《そのような友情では、私が全能者への信仰を失う》という批判です。

 J.G.ジャンセンが『ヨブ記』(現代聖書注解、飯謙訳、日本基督教団出版局 1989)で引用している訳はもっと痛烈で逆説を含んでいます。

「病む者はその友からの誠実をもつべきである。たとえ全能者への恐れを捨ててでも。」(J.G.ジャンセン『ヨブ記』、飯謙訳)

 今、病む者にとっては「神の問題」を捨ててでも「友の問題」が第一義的なのだ、と述べています。

 しかし、ヨブは15節で、友情の儚さの方へ戻って、言葉を続けます。

”わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。”(ヨブ記 6:15)


 6章は「言葉」のやり取りの世界の虚しさを告げています。


 いつだったか、福井達雨君が講演で次のように《言葉と共に生きる者の在り方を批判していました。

"教師はいても、教育者はいない。
 医師はいても、医者はいない。
 牧師はいても、牧者はいない。"


 ヨブと友人とのやり取りは、早く終わって欲しいのですが、これが延々と続くのが、ヨブ記の真骨頂なのです。

 私にとっては、自分の牧会の来し方を省みる、聖書との向き合いです。



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